私的告白『愚図愚図と酔いしれて ・・・』 816
丁稚時代から印刷業一筋、熟練の印刷工だった父にトムソンの知識は無い。
兄は機械を操り、箱の成型から梱包、送配から営業までの全てを一人でこなした。
そんな家業は出足から順風満帆の筈がない。
去年の年末、殴り合いの兄弟喧嘩をした上の兄とはそれ以来、勲は口をきいていない。 今や犬猿の仲だ。
丁稚時代から印刷業一筋、熟練の印刷工だった父にトムソンの知識は無い。
兄は機械を操り、箱の成型から梱包、送配から営業までの全てを一人でこなした。
そんな家業は出足から順風満帆の筈がない。
去年の年末、殴り合いの兄弟喧嘩をした上の兄とはそれ以来、勲は口をきいていない。 今や犬猿の仲だ。
「勲、お前は私立高校、受けへんのんか?」
ある日の夕食の時、父が突然言い出した。
火の車だった家業の印刷屋を父は上の兄に譲った。
兄は印刷業に見切りを付け、箱の型を取る[トムソン]という仕事を始めた。
三台の輪転機を処分し、新品のトムソンの機械を工場に設置して、兄は新しい仕事のスタートを切った。
昭和二十二、二十三、二十四年産まれの人口爆発層を
後に【団塊の世代】と、作家の堺屋太一氏が命名した。
【受験地獄】という言葉は、すでにこの時代、市民権を得ていた。
高校、大学、就職と団塊の世代の未来は厳しい競争を強いられることになる。
昨年の高校受験の入口で早くも勲は、落伍者となっていた。
良い高校に入り、良い大学に入り、一流企業に就職する。
このエスカレーターに乗ることを、多くの親が望む時代の始まりである。
二月初旬、併願の私立高校の受験日。
勲は麻植と共に校門をくぐった。一緒に父兄控え室に入った。
試験中、受験生の父母たちはこの教室で待機する。
室内には十数人の父兄たちが押し黙ったまま、ぽつりぽつり散らばって席に着いている。
少年二人が父兄控え室に入ってきたことに父兄たちは、訝かしげな視線を送る。
「…子供の受験に親が付き添うて、けったいな話やなあ…」
小声で勲が呟く。
「ほんまやなあ…」と麻植。
「俺の担任には話し済みや」
「話し済み言うても退学してからやないと、受験出来る筈ないやろ?」
「そんなこと、藤田が心配せんでもええこっちゃ。あんじょうやるさかいに」
勲や麻植同様、再受験するには中三の時の担任に
内申書と願書を書いて貰わなければならない。
勲は草薙の心情は理解できるが一抹の不安を覚えた。
「草薙、お前もういっぺん受験するて、どこ受けるつもりや?」
「H校に決まってるやろ」
「おう、H校かあ!そらええこっちゃ、俺らもH校受けるんや!」
「麻植、アホなこと言うな!」
「何でアホなことやねん?」
「草薙、お前いまの高校どないすんねん?」
「あっ、そうか!そういうことか」
麻植が草薙の現実を理解する。
惨めやった。掛け出して、一目散にこの現実から一刻も早く逃避したかった。
そや、今年合格したら岡は先輩や。
他の奴は知らんけど、合格しとったらそいつらも先輩になるいうこっちゃ…。
「おい、藤田、どうしたんや?ぼーっとしてからにぃ」
勲は我に返る。
去年、勲はH校を専願受験して落ちた。
今年受験して合格すれば、草薙は先輩になる。
今、そのことを実感した。
麻植と一緒にH校を再受験することに勲の心は決まっていた。
…そうや、去年T中から何人かがH校を受験したんや。
今となっては誰が受けたかの記憶はないけど、岡浩子は合格しとった。
受験結果発表の日、俺の受験番号が掲示板に無いのを知って校門の方へ踵を返すと、校舎の陰から岡がこっちを見つめとった。
あの何とも言えん視線は、今も忘れへん。
高校受験は私立高校、公立高校一校に絞った専願と、
私立・公立双方を受験する併願がある。
私立の受験日は、各校まちまちだが1月下旬から2月上旬に実施される。
公立高校は全校、3月初めに一斉に行われる。
私立受験の場合、専願の方が有利とされていた。
それにしても草薙が仮に市立H校を受験して合格していれば、
どうなったことやら、と勲は案じた。
この田圃の土手は、勲らにとっては〝井戸端会議〟の場だ。
「…受験?お前なに寝惚けたこと言うとんねん!」
「そやそや、お前、ちゃんと高校通うてるやないか」
草薙は上村と同じ私立のB商業高校に入学していた。
「俺なあ、ほんまは市立H校に行きたかったんや。
そやけど担任のゴリラが『うむ、草薙、H校は合否ギリギリやなあ、
お前は専願やろ?併願するんやったら話は別やけど、
B商業のほうが安全やぞ』言いよったんや」
「藤田、俺なあ…お前らみたいに、もうっぺん受験したいんや…」
焚き火のつもりでマッチで田圃の土手の草むらに上村と共に火を点け、
消防車の出動騒ぎを起こした草薙が、今の自身の心境を吐露した。
黒焦げになった土手に、勲と麻植に挟まれて座る草薙が呟く。
パッチと肌着にドテラを羽織った小柄な五十がらみの男が、
箒を手に裸足で二人を追い掛けて来る。
髪の毛は伸ばしっ放しでコテコテ。
口髭も生やし放題で顔はどす黒い。
映画で見た山賊のようだ。
「待たんかい、この餓鬼どもがあ!」
意外に足が速い。
「うお~っ、藤田、逃げるんや!」
「何で俺らが逃げなアカンのんや?」
と思うが、勲と麻植は逃げた。
「乞食のおっさん、出て来い!」
上村が足で木の扉を蹴っている。
公衆便所の男用・女用の二箇所の入り口を勝手に扉で覆い、
乞食が棲みついているらしい。
「出て来い!おっさん!」
男便所の扉が開く。
「うお~っ、出てきよったあ!…オジンの金玉~百貫目ぇ~!
オジンの金玉~百貫目ぇ~!」と、
囃し立てながら上村と草薙が逃げて来る。
勲にとって麻植は無二の親友だ。
就職した工場を辞めて身勝手な勲の浪人生活に付き合ってくれている。
「こいつと一緒やったら、H高でもええか…
合格することを何よりも、一番優先させなアカンのや…」
ベンチの隣に座る麻植の横顔に目を遣りながら、勲は心で呟いた。
麻植の視線は、公園の公衆便所の方向に向けられている。
補導され取り調べを受けた調書は、一年間だけ警察に保管されると、
刑事から聞かされた校長が言っていた。
今年の内申書には〝前科〟は掲らない。
勲は、医者の兄が卒業した府立K高を受験したかった。
しかし、学力が向上したとはいえK高は難関だ。
去年、夜間高校を辞めることを三年の担任、ポンタこと森田教諭に報告に行った。
「森田先生…俺…夜間高校…辞めます」
「…辞める?その訳、話しましょ」
「…来年、もういっぺん高校を受験します」
「もういっぺん受験するて、藤田、お前の内申書には警察に補導され…」
ここでポンタは口をつぐんだ。
しかし万が一、失敗すれば勲にとってはまさに〝受験地獄〟だ。
麻植にしても、就職したにもかかわらず半年で辞職し、
中学浪人の道を選択した。
もし受験に失敗でもしたら猛反対した両親に、合わす顔が無いだろう。
勲にはH高受験に難色を示すには、他にも理由があった。
「…あいつは、あんなことしか楽しみ無いんか?」
と、言葉を漏らす。
「ところで麻植、どこの高校を受験するんや?」
「あ、ああ…その話やったなあ、あいつら邪魔しやがって!
……俺、H高にしょうかなあ…」
勲が昨年、受験に失敗した市立高校だ。
勲の心境は、複雑だった。
これまでの自宅での受験勉強で、昨年の今頃に比較すると雲泥の差で学力は向上している。
参考書でしか実力テストは出来ないが、着実に学力は付いている。
このままの勉強を続ければ確実にH高よりランクの高い高校に入れると、勲には自信があった。
「そんなことどうでもええやんけ。それよりなあ藤田、
あそこの公衆便所に乞食のおっさんが不法占拠して住んどんのん、知ってるかあ?」
「そんなこと、知るかあ!」
「まあ、見とれよぉ」
上村は草薙を従えて、公園の隅に建つ便所に抜き足、差し足、忍び足で近寄る。
深江温泉の女風呂を覗いた、あの夜の仕草と同じだ。
ウ~ッ、カンカン~。 消防車が駆けつける。
田圃を挟んで工場の職人、長屋の主婦らが表に飛び出し、事の成り行きを傍観している。
勲ら四人は、燃えさかる火の陽炎にまみれて遁走する。
中深江公園のベンチに座る四人。
「…藤田、こいつ知ってるやろ?俺と同じクラスやった草薙や」
「おい上村、お前そんな事を言うてる場合か、ボケ!一体どういう了見で田圃に火ぃ付けたんや?」
「う、上村ぁ、お前なにすんねん!」
勲と麻植が上村に駆け寄る。
「ええやんけ、焚き火したかったんや!」
勲は呆然として、上村と出っ歯を睨み付ける。
冬の下町の田圃の土手は乾燥していて雑草は瞬くうちに連鎖反応を起こして燃え広がる。
傍にやや出っ歯気味のひょろひょろした奴が田圃の土手に佇んでいる。
「……おう、藤田かぁ… 」
上村は、まずい奴に出くわしたような表情で応える。
「おい、お前、マッチ擦って、何しょうと思うてんねん?」
上村は、マッチの軸をカラカラに乾いた田圃の土手の草、目がけて放り投げる。
五秒、十秒……、枯れ草がボウボウと音を立て燃え盛る。
「アホか!お前、将来なんになりたいんや?」
「……別にぃ…そや俺、喫茶店のマスターになりたいんや!」
「…アホかぁ…」
そんな仕事なら、中卒で働いて金を貯めて、小綺麗な店を借りればすむことだ。
勲は立ち上がり、ズボンの尻に付いた枯れた雑草を叩き落としながら歩み出した。
「おう、上村やんけえ、久しぶりやのう」
深江温泉の女風呂を一緒に覗いて、事がばれて一週間の停学を喰らった、あいつだ。
進学校を決めなくてはならなかった。
勲は母の死の枕部で約束した医者を将来の仕事と決めていた。
去年落ちた大阪市立H高校では、一流大学への登竜門には、到底おぼつかない。
「麻植、どこ受験する?」
自宅の一本南、T中学の東に拡がる田圃の土手に座り、麻植の胸の内を質す。
「…俺は、どこでもええでえ。ただ、せっかく就職した会社を辞めてしもうたから、
お母ちゃんやお父ちゃんの手前、金のかからん公立高校やったら、
どこでもええんや…」
投げ遣りだ。
「辞めて…兄弟喧嘩なんて、辞めてちょうだい…」
姉が兄にしがみついて、泣きじゃくる。
勲は灰皿を畳に投げつけ、激しく階段を二階に駆け上がる。
麻植が後に続く。
この日を境に勲は、兄と一切口を聞かなくなった。
「おう、やれるもんやったら、やってみい!」
兄は息が上がっている。
「やったらあ!兄貴のくせに仕事もさらさんと、
毎日ブラブラしとって、何が勉強せえじゃ!このボケ!」
勲は灰皿を持って殴り掛かろうとする。
「辞めて!辞めてちょうだい!一体、何してるんですか!辞めなさい!」
台所から駆けつけた姉が後ろから兄を制す。
麻植が勲の腰を掴む。
勲は兄の腹に頭から飛びつく。
兄はギブスをした右手の肘で勲の頭を抑え、
左手で顔面にアッーッパーカットを連発で見舞う。
「兄ぃちゃん、やめたって!やめたってえ!」
制止しようとする麻植。
しかし、兄の鉄拳は止まらない。
勲は一瞬の隙を見て体を離す。
夥しい鼻血がほとばしる。
右顔面が紫色に腫れ上がっている。
勲はテレビの上のガラスの灰皿を手にする。
「おう、勉強しとるか?頑張らあかんぞ!」
勲がキレた。
「……何いうてるねん!今、何時や思うてんねん!仕事もせんとからにぃ!」
「…勲、お前それ、誰にいうてるんや?」
「兄ぃちゃんや!兄ぃちゃんにいうてるんや!」
「何を、生意気な!」
兄は勲の首根っこを左手で鷲掴みにして、掘り炬燵から引き吊り出す。
「何するんや!」
勲は兄の腹に頭から飛びつく。
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