私的告白『愚図愚図と酔いしれて ・・・』 855
つまり、勲一人分のギャラで四人の構成者を新雇用しようというのである。
制作予算の多い人気報道番組は、局内でも羨望の的になっていた。
テレビ局の制作スタッフといえども所詮はサラリーマン社会でメシを喰っている。
出入り業者の心根など知ろう筈がない。
解雇など単なる人事異動くらいの認識であろう。
青天の霹靂、勲は五十五歳でリストラに遭遇した。
つまり、勲一人分のギャラで四人の構成者を新雇用しようというのである。
制作予算の多い人気報道番組は、局内でも羨望の的になっていた。
テレビ局の制作スタッフといえども所詮はサラリーマン社会でメシを喰っている。
出入り業者の心根など知ろう筈がない。
解雇など単なる人事異動くらいの認識であろう。
青天の霹靂、勲は五十五歳でリストラに遭遇した。
順風満帆の時の流れが突如、止まった。
番組構成の降板を告げられた。
新任のチーフプロデューサーの一言。
「先生の構成は報道的過ぎるように思えます。これからはもっとバラエティー色を取り入れた番組にしたいのです。
それに、構成者を2人東京から、それと大阪の若手2人を起用したいんです」
十五年の間に何度も人事異動が行われた。
その度に赴任してくる、局長、部長、チーフプロデューサー、ディレクター等々。
番組構成は十五年間、勲ひとり。
何のことはない、体の良いリストラ宣告だ。
勲にとってこの番組には人一倍、愛着と誇りがあった。
番組の視聴率は安定し、司会を務める落語家は押しも押されもしないニュースキャスターに育っていた。
勲はキャスター、解説委員共々、自衛隊初のPKO活動をカンボジアに取材し、ソ連邦崩壊後のロシア・モスクワに赴き、南米ペルーのゲリラ組織センデロ・ルミノソを解体させたフジモリ大統領のインタビュー取材にも同行した。
3回の自民党総裁選、2回の民主党代表選の特集も候補者たちをスタジオに招いた特集を手掛けた。
他の仕事を整理しつつ勲が唯一、心血を注いだ番組である。
勲にとって、この十五年間はバラエティー番組全盛の中で地歩を固めた報道番組であった。
局の社員であろうと勲は自説を曲げず、番組向上のために企画案を提案する。
それが功を奏し当初、低視聴率だった番組は東京の視聴率を底上げし、大阪発の全国ネット報道番組としての地位を確立した。
テレビ業界に身を晒して三十二年。
ディレクターとして、放送作家として幾多もの番組制作に携わって来た。
映像プロダクションを退社してフリーになり、業界仲間と制作会社を設立。
名ばかりの社長を勤めながら制作現場で力腕を振るった。
四十の声を聞く三ヵ月前の春から勲は十五年間、あるテレビ局の土曜日朝の全国ネット報道番組の構成を担当し続けた。
2冊目のアルバム写真の勲は十五歳。
6本目のサッポロ黒ラベルの中瓶を1階のリビングからぶら下げてきた勲は、五十五歳。
あと四十年分の写真を整理すると、現在に辿り着く。
「ふ~っ、旨い!」ビールグラスを一気に飲み干す。
手作りの肴はきんぴらごぼうに変わっている。
こまめな奴だ。
アルバム整理は、遅々として進まない。
二日酔いで喉が渇き早朝に目が覚め、迎え酒を決め込んで漠然と始めたアルバム整理。
祖母に抱かれた宮参りの一枚の写真から辿りだした、過去からの時の流れは今、高校受験を控えた中学浪人時代の勲の2冊目のアルバムで止まっている。
書斎机の上には、勲が成人してからの未整理の夥しい写真の山が3つも聳え立っている。
書斎の時計は正午を過ぎている。
整理を始めて6時間が経っている。
1964年、昭和39年4月。
麻植は一年一組、勲が一年二組、二人の一年遅れの高校生活が始動した。
勲は父と上の兄の“入学祝い”という名目で少林寺拳法の道場に通い出した。
入学式までは毎日、谷町四丁目の町道場で稽古に汗した。
麻植は高校の剣道部に入部した。
勲の自宅で過ごした濃密な中学浪人生活から、二人は自立し始めた。
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