私的告白『愚図愚図と酔いしれて ・・・』 855
つまり、勲一人分のギャラで四人の構成者を新雇用しようというのである。
制作予算の多い人気報道番組は、局内でも羨望の的になっていた。
テレビ局の制作スタッフといえども所詮はサラリーマン社会でメシを喰っている。
出入り業者の心根など知ろう筈がない。
解雇など単なる人事異動くらいの認識であろう。
青天の霹靂、勲は五十五歳でリストラに遭遇した。
つまり、勲一人分のギャラで四人の構成者を新雇用しようというのである。
制作予算の多い人気報道番組は、局内でも羨望の的になっていた。
テレビ局の制作スタッフといえども所詮はサラリーマン社会でメシを喰っている。
出入り業者の心根など知ろう筈がない。
解雇など単なる人事異動くらいの認識であろう。
青天の霹靂、勲は五十五歳でリストラに遭遇した。
順風満帆の時の流れが突如、止まった。
番組構成の降板を告げられた。
新任のチーフプロデューサーの一言。
「先生の構成は報道的過ぎるように思えます。これからはもっとバラエティー色を取り入れた番組にしたいのです。
それに、構成者を2人東京から、それと大阪の若手2人を起用したいんです」
十五年の間に何度も人事異動が行われた。
その度に赴任してくる、局長、部長、チーフプロデューサー、ディレクター等々。
番組構成は十五年間、勲ひとり。
何のことはない、体の良いリストラ宣告だ。
勲にとってこの番組には人一倍、愛着と誇りがあった。
番組の視聴率は安定し、司会を務める落語家は押しも押されもしないニュースキャスターに育っていた。
勲はキャスター、解説委員共々、自衛隊初のPKO活動をカンボジアに取材し、ソ連邦崩壊後のロシア・モスクワに赴き、南米ペルーのゲリラ組織センデロ・ルミノソを解体させたフジモリ大統領のインタビュー取材にも同行した。
3回の自民党総裁選、2回の民主党代表選の特集も候補者たちをスタジオに招いた特集を手掛けた。
他の仕事を整理しつつ勲が唯一、心血を注いだ番組である。
勲にとって、この十五年間はバラエティー番組全盛の中で地歩を固めた報道番組であった。
局の社員であろうと勲は自説を曲げず、番組向上のために企画案を提案する。
それが功を奏し当初、低視聴率だった番組は東京の視聴率を底上げし、大阪発の全国ネット報道番組としての地位を確立した。
テレビ業界に身を晒して三十二年。
ディレクターとして、放送作家として幾多もの番組制作に携わって来た。
映像プロダクションを退社してフリーになり、業界仲間と制作会社を設立。
名ばかりの社長を勤めながら制作現場で力腕を振るった。
四十の声を聞く三ヵ月前の春から勲は十五年間、あるテレビ局の土曜日朝の全国ネット報道番組の構成を担当し続けた。
2冊目のアルバム写真の勲は十五歳。
6本目のサッポロ黒ラベルの中瓶を1階のリビングからぶら下げてきた勲は、五十五歳。
あと四十年分の写真を整理すると、現在に辿り着く。
「ふ~っ、旨い!」ビールグラスを一気に飲み干す。
手作りの肴はきんぴらごぼうに変わっている。
こまめな奴だ。
アルバム整理は、遅々として進まない。
二日酔いで喉が渇き早朝に目が覚め、迎え酒を決め込んで漠然と始めたアルバム整理。
祖母に抱かれた宮参りの一枚の写真から辿りだした、過去からの時の流れは今、高校受験を控えた中学浪人時代の勲の2冊目のアルバムで止まっている。
書斎机の上には、勲が成人してからの未整理の夥しい写真の山が3つも聳え立っている。
書斎の時計は正午を過ぎている。
整理を始めて6時間が経っている。
1964年、昭和39年4月。
麻植は一年一組、勲が一年二組、二人の一年遅れの高校生活が始動した。
勲は父と上の兄の“入学祝い”という名目で少林寺拳法の道場に通い出した。
入学式までは毎日、谷町四丁目の町道場で稽古に汗した。
麻植は高校の剣道部に入部した。
勲の自宅で過ごした濃密な中学浪人生活から、二人は自立し始めた。
「山城先輩、あいつら受験生ですわ。願書持ってましたから」
「なかなかええ根性しとるやないかい」
H高柔道部主将の山城は、勲の後ろ姿に言葉を吐いた。
「麻植、今の独活の大木がH高を仕切っとる奴に間違いない」
「それが、どないしてん?」
「入学したらオモロなるどお!」
二人はこの日、無事に願書を提出した。
勲がH高受験に失敗したあの日から早や一年。
勲、麻植、草薙は二日間の入学試験を受験した。
勲と麻植は合格し、草薙は不合格だった。
長身でがっしりとした体躯の生徒が、四~五人の生徒を引き連れて出て来た。
勲の視線に気付き、睨み返してくる。
そしてゆっくりと近づいて来る。
「お前ら一体、何しとんねん?」
「見たら分かるやろ?立っとんねん」
「そんなこと分かっとるわい。そやから、立って何しとんねんと聞いとんのじゃ!」
「立って、立っとんのじゃ!」
「何やとぉ!」
「おい、行こか?」
勲は麻植を促して校門を入って行った。
下校時間、H高の生徒たちが下校の途に着く。
校門前に立つ学生服姿の二人に多くの生徒が訝しげな視線を注ぐ。
女子高生の中には興味深げに微笑む者もいる。
麻植の口元が緩む。
その都度、勲が左肘で麻植の脇腹を突く。
「……岡には、会いたないなあ」
勲が心の中で呟く。
同級生で勲に淡い想いを抱き、勲も悪い気はしなかった岡は去年H高に合格している。勲は、落ちた。
例年より早い春霞が淀む、H高校の正門の前に勲と麻植が仁王立つ。
「おい、ニヤニヤ笑うな!」
「何でや?願書出すのんが嬉しないんか」
「何でもええから腕組んでジ~ッと校門の中、睨んどけ!」
麻植には勲の心情が理解できない。
ただ、勲が何かを企んでいる事だけは察しがついた。
B商業高校に入学しながらこの春、勲と麻植が受験する市立H高校を再受験すると言い出した草薙が、休学した。
そして、勲の家で三人揃って受験の追い込みの猛勉強が始まった。
願書受付は1ヵ月後だ。
入学金は医者の兄からもたらされたものだ。
しかし、目の前で私学に合格した勲に相好を崩している父を見ていると、自然と素直になれた。
勲の心の中に小学校三年から棲み続けていた拗ね根性が、突然消えた。
併願の私学とはいえ、合格したことが重荷の雪解けとなって、勲の周りに春が訪れた。
父が入学金を納めたことを勲に告げる。
「…お父ちゃんおおきに!ほんまにゴメンやで。H校に合格したら入学金無駄になるのにほんまにゴメンなあ」
「まだそんなこと言うてるんかいな。別条無い、あの入学金はH校合格するための勲の〝心の保健〟や」
勲は思わず嗚咽を漏らした。
幼い頃から常に優しく勲に接してくれた父。
母には幾度となく愛の鉄拳を喰らったが、父は勲に一度も手を挙げたことが無い。
次の日も勲は受験教室で、麻植は父兄控え室で答案用紙と睨み合った。
問題は簡単だった。
二人っきりの受験勉強であるが、実力は着実に培われていた。
入学試験の一週間後、D高校の合格発表があった。
勲は合格した。生まれて初めての合格発表だったが、感慨はない。
工業高校から大学医学部を受験する生徒などいない。
昨年の市立H高校の発表で味わった、谷底に突き落とされたような屈辱は消えない。
D高校にしろ、H高校にしろ入学すれば一年坊主だ。
人一倍、勝手気ままな自己顕示欲の強い勲である。
「…そんな学校生活に俺、耐えられるかなあ?」
後ろを振り返り、小太りのラガーマンに目を遣りながら勲は、自問自答した。
大切な受験の日の揉め事。
勲は自分の瞬間湯沸かし機のような性格を悔いた。
と、同時にこの時、勲は中学浪人という立場が現実の高校社会では、宙ぶらりんの蓑虫みたいな誰にも相手にされない存在であることを思い知らされた。
「先輩、こいつうちの高校に合格したらラグビーやるそうです」
村瀬が先輩の機嫌を取る。
「そうかあ、そうなったら可愛がったら。なかなかええ根性しとるさかいなあ」
「誰がお前みたいなヘタのおるクラブに入るかい、ボケ!」
勲は村瀬の立場と、正門前でポツンと佇んでいる麻植の姿を見て、
悪態の言葉は噛み殺した。
「ハイ!今日、本校を受験に来た者です」
村瀬に任せておけば又、浪人話に戻る。
「そうか、それなら早く帰りなさい。明日も試験だろう、頑張りなさい!さあ、お前ら早く練習に戻らんか!」
監督が練習の輪に駆け足で戻る。
この教師がD高校のラグビー部を全国有数の強豪チームに育て上げた、有名なA監督だ。
「何じゃとぉこのガキ、いってもたろか!」
「先輩、お願いですから止めてください!藤田、お前も謝れ」
「こら、そこで何しとる」
ジャージの上下を着た監督らしい教師が歩み寄る。
「いや、別に何もありません!」
村瀬の先輩に当たる小太りが、直立不動の姿勢を取ってから村瀬を促し、監督に深々と頭を下げる。
余程のスパルタ教師なのだろう。
二人は縮み上がっている。
「君はどこの生徒だ?」監督が勲に問う。
「浪人のどこが悪いんじゃ!ボケ!好きこのんで浪人してるかい!」
「はっはっはあ、頭悪いから受験に滑るんじゃ!」
「じゃかましいわい!おのれなんか、からがデカイだけでラグビー部に入れてもうとんねんやないけ!頭振ってみい、コロコロ音するやろ?脳みそがウサギの糞みたいに小さい証拠じゃ、カス!」
口では負けない。
「違うんです先輩、こいつ俺の中学の同窓生で今日、うちの高校を受験しに来たす」
今にも勲の胸ぐらを掴もうとする先輩を村瀬が制する。
「何?お前の同窓生が何で今年、うちの学校を受験しよるんや?…ははあ~ん、お前、中学浪人しとるんか?」
「先輩、止めてください!俺がこいつに声を掛けたから悪いんです」
喧嘩っ早い勲の性格を知る村瀬が先輩の機先を制する。
「藤田!テストどやった?」
「おう、村瀬!まあまあや…」
勲は校庭の真ん中に進んだ。
「こらあ!お前は何じゃ!練習の邪魔すんな!」
薄汚れた白のヘッドギアを眉毛の上まで被った、小太りでいかにもホワードのプロップ然とした奴が、勲に駆け寄って来る。
一日目のテストを終え、二人は校庭に出る。
校庭も校舎も中学とは段違いで立派な造りだ。
これが高校なんだと二人は、まだ未知の高校生活に夢の想いを馳せる。
ラグビー部がパスとスクラムの練習に汗を流している。
校庭を正門の方へと歩み出した勲の姿を認めた村瀬が声を掛ける。
「この調子やったら、明日の試験も屁の突っ張りにもならへんのんと違うか?」
麻植は機嫌が良い。
勲と一緒に受験研究社の参考書の模擬テストしか受けていない麻植は、
実際のテストで自信が沸いてきたようだ。
良かった。勲も同じ思いだ。
教室こそ違うが、同じ時間に同じ問題用紙に二人で挑戦しているという、
一体感を勲は持ちたかった。
「そやなあ、意外に簡単な問題やったなあ」
天ぷらうどんの出汁と天かすと刻みネギを一緒にすすりながら、勲は応える。
自分だけ併願受験しているという想いだ。
三月に実施される公立の受験テストに専願で望む麻植は、後のない崖っぷちの一発勝負の試験だ。
勲が麻植を連れてきたのは、父兄控え室で問題用紙が配られるという情報を事前に村瀬から得ていたからだ。
「思うてたより問題簡単やったなあ」
父兄控え室では、受験生が首っ引きで取り組んでいる問題用紙が配布される。
親も苦しめ!ということか。
麻植は問題用紙を相手に受験生同様に〝受験〟した。
勲には麻植に対して負い目のような心の澱があった。
「ほな、ぼちぼち行ってくるわ」
「頑張れよ!」
勲は受験票を片手に父兄控え室を後にした。
一時限目の国語から、初日の受験テストは始まった。
昼食を挟み午後二時、一日目のテストは終った。
昼食は学食で麻植と一緒に三十円の天ぷらうどんをすすった。
勲はふと、D高校に進学してラグビー部に入る衝動に駆られた。
村瀬は野球部を辞めてラグビー部に入部し、兄と同じナンバー8のポジションを射止めて活躍している。
二年の冬には花園の全国大会に初出場し、ベスト4まで勝ち進んだ。
そしてK大学に入学してラグビー部に入部し、関西大学Aリーグでラグビーを続けることとなる。
兄のポジションは、ナンバー8。ホワードとバックスを繋ぐ重要なポジションだ。
スクラムを組む時、一番後ろに位置して味方のスクラムハーフがボールを入れた後の試合展開を察知し、試合をリードする。
延々続くラグビー教室に村瀬は真剣な眼差しで聞き入る。
悪戯仲間だった村瀬のこんな表情を勲は、今まで見たことがない。
漠然とだが村瀬が大人に見えた。
集団の高校生活と、勲と麻植ふたりきりの中学浪人生活。
このギャップを勲は、強烈なボディーブローのように感じた。
D高校は近年ラグビーで頭角を現した。
冬の花園の全国大会にはまだ出場したことはないが、大阪地区予選ではベスト8に入る実力を備えていた。
高校に入った村瀬はがっちりした体躯に成長していた。
勲の家の前に出した大きな床机に座り、兄は村瀬にラグビーという競技の魅力を熱っぽく語る。傍で勲も拝聴する。
勲は私立を受験することを決意した。受験校はD高校。
野球部推薦で村瀬と本岡が入学し、幼稚園からの親友の有沢の居る高校だ。
選んだ理由はいとも簡単、ラグビー部が強い。
野球部推薦で入学した村瀬が、勲の下の兄に相談を持ち掛けたことがある。
村瀬は兄が高校時代に私学ラグビー大会で優勝したことを知っていた。
中学時代は野球部で一年からレギュラーに選ばれた村瀬だが、高校ではそうはいかない。
並みいる野球部推薦の同級生の中から、レギュラーポジションを得るのは並大抵の事ではない。
父にしろ、二人の兄、そして義姉にせよ、家族全員が勲の進路を真剣に考えてくれている。
仮に公立先願で受験にまた失敗すれば、勲自身どう身を処すべきなのだろうか。
それを家族が危惧している。
勲にとっての家族とは、母を中心として生活が回っていたあの頃の藤田家だった。
僅か十四年間しか一緒に暮らせなかった歳月の流れの中に、勲の家族像は埋没したままであった。
「勲、兄ちゃんが金のことは心配せんでええと言うてんねんから、併願で私立を受験し」
下の兄が優しく説得する。
勲は下の兄に、弱い。
小学校の時から一緒に児童劇団に通い、お互い子役として陽の目を見た間柄。
何かにつけて勲は、下の兄の真似をした。
服装から歩き方、しゃべり口調。
それらは良い子役になるための勲の教科書だった。
勲にとっては、養子話に当初猛反対していた母を入院もさせずに死に至らせたという医者の兄に、自分勝手な怨念がある。
医者の兄からの金銭的な援助は受け入れられない。
十五歳の男の意地だ。
しかし、現実は医者の兄の援助無くして、藤田家の家計はもたない。
去年、京都のD大学に入学した下の兄の学費も医者の兄が賄ってくれている。
「金のことなんかお前は心配せんでええ!」
上の兄が裁定を下す。隣の恵子さんは、押し黙っていた。
「また医者の兄ちゃんにお金借りるんか!」
「何やとう!もういっぺん言うてみい!」
「勲君 …」恵子さんが首を左右に振って諍いを鎮めようと努めている。
勲はトムソンの機械を購入する際、養子に出た兄が資金援助したことを知っている。
医者の兄は養子に出てからの藤田印刷の衰退ぶりを見るにつけ、
自責の念を抱いているようだ。
自分の代わりに家業を継いだ次兄に気を掛けていた。
「私立高校を受けるいうても受験料や、それに合格したらすぐに入学金払わなアカンのんやでぇ。
公立に合格したら、その入学金はパーになってしまうんやでぇ」
「そんなこと、勲は心配せんでええ。お父ちゃんが、あんじょうするさかいに」
「そやかて、お父ちゃんは仕事してへんし…」
みそ汁を啜る父の横顔が一瞬、寂しげに見えた。
丁稚時代から印刷業一筋、熟練の印刷工だった父にトムソンの知識は無い。
兄は機械を操り、箱の成型から梱包、送配から営業までの全てを一人でこなした。
そんな家業は出足から順風満帆の筈がない。
去年の年末、殴り合いの兄弟喧嘩をした上の兄とはそれ以来、勲は口をきいていない。 今や犬猿の仲だ。
「勲、お前は私立高校、受けへんのんか?」
ある日の夕食の時、父が突然言い出した。
火の車だった家業の印刷屋を父は上の兄に譲った。
兄は印刷業に見切りを付け、箱の型を取る[トムソン]という仕事を始めた。
三台の輪転機を処分し、新品のトムソンの機械を工場に設置して、兄は新しい仕事のスタートを切った。
昭和二十二、二十三、二十四年産まれの人口爆発層を
後に【団塊の世代】と、作家の堺屋太一氏が命名した。
【受験地獄】という言葉は、すでにこの時代、市民権を得ていた。
高校、大学、就職と団塊の世代の未来は厳しい競争を強いられることになる。
昨年の高校受験の入口で早くも勲は、落伍者となっていた。
良い高校に入り、良い大学に入り、一流企業に就職する。
このエスカレーターに乗ることを、多くの親が望む時代の始まりである。
二月初旬、併願の私立高校の受験日。
勲は麻植と共に校門をくぐった。一緒に父兄控え室に入った。
試験中、受験生の父母たちはこの教室で待機する。
室内には十数人の父兄たちが押し黙ったまま、ぽつりぽつり散らばって席に着いている。
少年二人が父兄控え室に入ってきたことに父兄たちは、訝かしげな視線を送る。
「…子供の受験に親が付き添うて、けったいな話やなあ…」
小声で勲が呟く。
「ほんまやなあ…」と麻植。
「俺の担任には話し済みや」
「話し済み言うても退学してからやないと、受験出来る筈ないやろ?」
「そんなこと、藤田が心配せんでもええこっちゃ。あんじょうやるさかいに」
勲や麻植同様、再受験するには中三の時の担任に
内申書と願書を書いて貰わなければならない。
勲は草薙の心情は理解できるが一抹の不安を覚えた。
「草薙、お前もういっぺん受験するて、どこ受けるつもりや?」
「H校に決まってるやろ」
「おう、H校かあ!そらええこっちゃ、俺らもH校受けるんや!」
「麻植、アホなこと言うな!」
「何でアホなことやねん?」
「草薙、お前いまの高校どないすんねん?」
「あっ、そうか!そういうことか」
麻植が草薙の現実を理解する。
惨めやった。掛け出して、一目散にこの現実から一刻も早く逃避したかった。
そや、今年合格したら岡は先輩や。
他の奴は知らんけど、合格しとったらそいつらも先輩になるいうこっちゃ…。
「おい、藤田、どうしたんや?ぼーっとしてからにぃ」
勲は我に返る。
去年、勲はH校を専願受験して落ちた。
今年受験して合格すれば、草薙は先輩になる。
今、そのことを実感した。
麻植と一緒にH校を再受験することに勲の心は決まっていた。
…そうや、去年T中から何人かがH校を受験したんや。
今となっては誰が受けたかの記憶はないけど、岡浩子は合格しとった。
受験結果発表の日、俺の受験番号が掲示板に無いのを知って校門の方へ踵を返すと、校舎の陰から岡がこっちを見つめとった。
あの何とも言えん視線は、今も忘れへん。
高校受験は私立高校、公立高校一校に絞った専願と、
私立・公立双方を受験する併願がある。
私立の受験日は、各校まちまちだが1月下旬から2月上旬に実施される。
公立高校は全校、3月初めに一斉に行われる。
私立受験の場合、専願の方が有利とされていた。
それにしても草薙が仮に市立H校を受験して合格していれば、
どうなったことやら、と勲は案じた。
この田圃の土手は、勲らにとっては〝井戸端会議〟の場だ。
「…受験?お前なに寝惚けたこと言うとんねん!」
「そやそや、お前、ちゃんと高校通うてるやないか」
草薙は上村と同じ私立のB商業高校に入学していた。
「俺なあ、ほんまは市立H校に行きたかったんや。
そやけど担任のゴリラが『うむ、草薙、H校は合否ギリギリやなあ、
お前は専願やろ?併願するんやったら話は別やけど、
B商業のほうが安全やぞ』言いよったんや」
「藤田、俺なあ…お前らみたいに、もうっぺん受験したいんや…」
焚き火のつもりでマッチで田圃の土手の草むらに上村と共に火を点け、
消防車の出動騒ぎを起こした草薙が、今の自身の心境を吐露した。
黒焦げになった土手に、勲と麻植に挟まれて座る草薙が呟く。
パッチと肌着にドテラを羽織った小柄な五十がらみの男が、
箒を手に裸足で二人を追い掛けて来る。
髪の毛は伸ばしっ放しでコテコテ。
口髭も生やし放題で顔はどす黒い。
映画で見た山賊のようだ。
「待たんかい、この餓鬼どもがあ!」
意外に足が速い。
「うお~っ、藤田、逃げるんや!」
「何で俺らが逃げなアカンのんや?」
と思うが、勲と麻植は逃げた。
「乞食のおっさん、出て来い!」
上村が足で木の扉を蹴っている。
公衆便所の男用・女用の二箇所の入り口を勝手に扉で覆い、
乞食が棲みついているらしい。
「出て来い!おっさん!」
男便所の扉が開く。
「うお~っ、出てきよったあ!…オジンの金玉~百貫目ぇ~!
オジンの金玉~百貫目ぇ~!」と、
囃し立てながら上村と草薙が逃げて来る。
勲にとって麻植は無二の親友だ。
就職した工場を辞めて身勝手な勲の浪人生活に付き合ってくれている。
「こいつと一緒やったら、H高でもええか…
合格することを何よりも、一番優先させなアカンのや…」
ベンチの隣に座る麻植の横顔に目を遣りながら、勲は心で呟いた。
麻植の視線は、公園の公衆便所の方向に向けられている。
補導され取り調べを受けた調書は、一年間だけ警察に保管されると、
刑事から聞かされた校長が言っていた。
今年の内申書には〝前科〟は掲らない。
勲は、医者の兄が卒業した府立K高を受験したかった。
しかし、学力が向上したとはいえK高は難関だ。
去年、夜間高校を辞めることを三年の担任、ポンタこと森田教諭に報告に行った。
「森田先生…俺…夜間高校…辞めます」
「…辞める?その訳、話しましょ」
「…来年、もういっぺん高校を受験します」
「もういっぺん受験するて、藤田、お前の内申書には警察に補導され…」
ここでポンタは口をつぐんだ。
しかし万が一、失敗すれば勲にとってはまさに〝受験地獄〟だ。
麻植にしても、就職したにもかかわらず半年で辞職し、
中学浪人の道を選択した。
もし受験に失敗でもしたら猛反対した両親に、合わす顔が無いだろう。
勲にはH高受験に難色を示すには、他にも理由があった。
「…あいつは、あんなことしか楽しみ無いんか?」
と、言葉を漏らす。
「ところで麻植、どこの高校を受験するんや?」
「あ、ああ…その話やったなあ、あいつら邪魔しやがって!
……俺、H高にしょうかなあ…」
勲が昨年、受験に失敗した市立高校だ。
勲の心境は、複雑だった。
これまでの自宅での受験勉強で、昨年の今頃に比較すると雲泥の差で学力は向上している。
参考書でしか実力テストは出来ないが、着実に学力は付いている。
このままの勉強を続ければ確実にH高よりランクの高い高校に入れると、勲には自信があった。
「そんなことどうでもええやんけ。それよりなあ藤田、
あそこの公衆便所に乞食のおっさんが不法占拠して住んどんのん、知ってるかあ?」
「そんなこと、知るかあ!」
「まあ、見とれよぉ」
上村は草薙を従えて、公園の隅に建つ便所に抜き足、差し足、忍び足で近寄る。
深江温泉の女風呂を覗いた、あの夜の仕草と同じだ。
ウ~ッ、カンカン~。 消防車が駆けつける。
田圃を挟んで工場の職人、長屋の主婦らが表に飛び出し、事の成り行きを傍観している。
勲ら四人は、燃えさかる火の陽炎にまみれて遁走する。
中深江公園のベンチに座る四人。
「…藤田、こいつ知ってるやろ?俺と同じクラスやった草薙や」
「おい上村、お前そんな事を言うてる場合か、ボケ!一体どういう了見で田圃に火ぃ付けたんや?」
「う、上村ぁ、お前なにすんねん!」
勲と麻植が上村に駆け寄る。
「ええやんけ、焚き火したかったんや!」
勲は呆然として、上村と出っ歯を睨み付ける。
冬の下町の田圃の土手は乾燥していて雑草は瞬くうちに連鎖反応を起こして燃え広がる。
傍にやや出っ歯気味のひょろひょろした奴が田圃の土手に佇んでいる。
「……おう、藤田かぁ… 」
上村は、まずい奴に出くわしたような表情で応える。
「おい、お前、マッチ擦って、何しょうと思うてんねん?」
上村は、マッチの軸をカラカラに乾いた田圃の土手の草、目がけて放り投げる。
五秒、十秒……、枯れ草がボウボウと音を立て燃え盛る。
「アホか!お前、将来なんになりたいんや?」
「……別にぃ…そや俺、喫茶店のマスターになりたいんや!」
「…アホかぁ…」
そんな仕事なら、中卒で働いて金を貯めて、小綺麗な店を借りればすむことだ。
勲は立ち上がり、ズボンの尻に付いた枯れた雑草を叩き落としながら歩み出した。
「おう、上村やんけえ、久しぶりやのう」
深江温泉の女風呂を一緒に覗いて、事がばれて一週間の停学を喰らった、あいつだ。
進学校を決めなくてはならなかった。
勲は母の死の枕部で約束した医者を将来の仕事と決めていた。
去年落ちた大阪市立H高校では、一流大学への登竜門には、到底おぼつかない。
「麻植、どこ受験する?」
自宅の一本南、T中学の東に拡がる田圃の土手に座り、麻植の胸の内を質す。
「…俺は、どこでもええでえ。ただ、せっかく就職した会社を辞めてしもうたから、
お母ちゃんやお父ちゃんの手前、金のかからん公立高校やったら、
どこでもええんや…」
投げ遣りだ。
「辞めて…兄弟喧嘩なんて、辞めてちょうだい…」
姉が兄にしがみついて、泣きじゃくる。
勲は灰皿を畳に投げつけ、激しく階段を二階に駆け上がる。
麻植が後に続く。
この日を境に勲は、兄と一切口を聞かなくなった。
「おう、やれるもんやったら、やってみい!」
兄は息が上がっている。
「やったらあ!兄貴のくせに仕事もさらさんと、
毎日ブラブラしとって、何が勉強せえじゃ!このボケ!」
勲は灰皿を持って殴り掛かろうとする。
「辞めて!辞めてちょうだい!一体、何してるんですか!辞めなさい!」
台所から駆けつけた姉が後ろから兄を制す。
麻植が勲の腰を掴む。
勲は兄の腹に頭から飛びつく。
兄はギブスをした右手の肘で勲の頭を抑え、
左手で顔面にアッーッパーカットを連発で見舞う。
「兄ぃちゃん、やめたって!やめたってえ!」
制止しようとする麻植。
しかし、兄の鉄拳は止まらない。
勲は一瞬の隙を見て体を離す。
夥しい鼻血がほとばしる。
右顔面が紫色に腫れ上がっている。
勲はテレビの上のガラスの灰皿を手にする。
「おう、勉強しとるか?頑張らあかんぞ!」
勲がキレた。
「……何いうてるねん!今、何時や思うてんねん!仕事もせんとからにぃ!」
「…勲、お前それ、誰にいうてるんや?」
「兄ぃちゃんや!兄ぃちゃんにいうてるんや!」
「何を、生意気な!」
兄は勲の首根っこを左手で鷲掴みにして、掘り炬燵から引き吊り出す。
「何するんや!」
勲は兄の腹に頭から飛びつく。
恵子さんが藤田家に嫁いで来て半年余り。
むさ苦しい男所帯を甲斐甲斐しく切り盛りしている。
健気な姉の姿を見るにつけ、勲は毎日ブラブラしている兄の心根が分からない。
そのうち、改装した二階の洋室のドアが開く音がし、兄が階段を下りてくる。
当然、トムソンの仕事は休業。
父は引退して毎日、趣味の写真撮影や現像、養子の兄の家や、嫁いだ姉の家に孫の顔を見に出かける。
昼を過ぎても兄は起きてこない。
このところ毎日がこうだ。
勲は無性に腹が立った。
上の兄が年末、事故に遭った。
どこにそんな金があるのか知らないが、兄は立派なオートバイを持っていた。
ハーレーダビットソン。
どんな事故かは知らないが、兄は右手を骨折した。
ギブスをした右手を包帯で首から吊っている。
全日制公立高校の入学試験まで、あと二ヵ月余り。
受験勉強も仕上げの段階に入る。
勲と麻植は教科書や参考書と首っ引き。
二階の電気炬燵では本を置くスペースが狭いので一階、中の間の掘り炬燵が勉強場になった。
勲は朝から不機嫌だった。
向かい側に座る麻植が、心配そうに時々勲に視線を遣る。
全日制公立高校の入学試験まで、あと二ヵ月余り。
受験勉強も仕上げの段階に入る。
勲と麻植は教科書や参考書と首っ引き。
二階の電気炬燵では本を置くスペースが狭いので一階、中の間の掘り炬燵が勉強場になった。
勲は朝から不機嫌だった。
向かい側に座る麻植が、心配そうに時々勲に視線を遣る。
「何で(a+b)x-(a+b)yが(a+b)(x-y)になるんや!」
置き換えたり、くくったり、もどしたりする因数分解は、勲の理屈に合わない。
その点、麻植はくくったり、もどしたりが性に合うらしい。
「お前の頭、一体どうなってるねん?」
「藤田、難しい考えんでええんや。トランプの〝神経衰弱〟みたいに、数字や絵札の一緒のカード同士をくっつけたらええんや。それだけのこっちゃ」
麻植のこの言葉に勲は、開眼した。
△例題
(a+b)x-(a+b)yを因数分解せよ。
共通因数(a+b)=Aと置き換える。
そうするとAx-Ayという式になる。
そこで共通因数であるAでくくると
A(x-y)となりAをもどすと
(a+b)(x-y)となる。
今日からの一週間は毎日、受験研究社参考書の国語・数学・英語・理科・社会の5教科の模擬テストをやる。
各教科の一つの章が終わる度に、復習のための模擬テストの頁が待ち構えている。
自分たちの受験勉強の成果を試す。
勲はやはり数学が苦手だ。
特に因数分解。
基本は【共通因数】で、くくるという。
西に沈む夕日の軌跡が、ゆっくりと南に傾いて行く。
いつもと違う夏が終わり、残暑を残した初秋も行き過ぎ、秋が深まり、木々は色づき、葉がひらひらと落ちていく。
勲の淡い恋も音もなく、落ちていった。
歳が替わった。
ギラギラ照りつける八月の灼熱の太陽。
むせ返るような草いきれ。
腕組みされたまま小径を頂上に向かう。
股間は脈打ちっ放し。
ラムネで交わした間接キス。
訳の分からないうちに、恋に落ちた。
夏休みのT中の校庭をフラッと訪れ、砂場の縁に座り、テニス部の練習を眺めていた。
テニスボールが目の前に転がってきた。
下級生の女子生徒がボールを拾いに駆け寄って来た。
全く偶然の由美との出逢い。
♪セットゥ ブライ
セットゥ ブライ
アスペタルミー
クゥウェル ジョルノ アブライ
トゥトィル アモーレー
もし よければ
もし よければ
私を待っていてくださるなら
その日 あなたに
私のすべての愛をさしあげます
あなたに
未練たらしく勲は、この歌詞をしたためて最後の手紙を投函した。
思った通り、由美からの返事は遂に来なかった。
♪ラシア ケオビーバー
ウ ナモレ ロマンティコー
ネラテーザ
ケベンガクェル ジョルノー
マオラノー
今は生きさせてください
ロマンチックな 恋を夢見ながら
私 待っているんです
その日が来るのを
いいえ 今はだめです
♪ノノレター ノノレター
ペル ア マルテイー
ノノレター
ペルウシーレー
ソラコン テー
まだ幼くて まだ幼くて
あなたを愛せません
まだ幼くて デートなんて
あなたと 二人きりなんて
「…こんばんは、池田さんのお宅ですか?」
「…はい…」
お母さんのようだ。
「…僕、T中の生徒だった藤田勲といいます」
「……」
相手は、反応を拒否している。
「…あのう…由美さん、いらっしゃいますか?」
「居りません!」
ガチャ!
一巻の終わり。
呆気のない、幕切れだった。
勲に男と女の肉体の存在を知らしめた恋は、露と消えた。
未だ、諦めがつかない。
女々しい男だ。
由美の住所が分かった勲は、自分の想いを綴った手紙を書いた。
何度も書いた。
しかし一通の返事も来なかった。
意を決し、誰もいないことを確認して台所から、一度だけ電話を掛けた。
龍海寺の墓前にしゃがみ込んで勲は、号泣した。
墓石の裏に幼い頃に埋めた十円硬貨を掘り出す。
右の掌でギュッと握りしめる。
「……もう、もう、ええんやぁ!……
もう、どうでも、ええんやあ!……ボケッ!」
泥の付いた十円玉を勲は、初秋の藍色の高い空に向かって肩が抜ける程の力を込めて、放り投げた。
「……お母ちゃん…僕どないしたらええのん?教えて……
受験勉強はしてるけど、何のために勉強してるんか分からへんねん。
お父ちゃんにも兄ちゃんや姉ちゃん、友達にも誰にも相談出来へんねん……
一体どうしたらええのん?」
勲の心の中は、空っぽになっていた。
「…麻植、今日はもう勉強辞めよ。ここからやったら、お前の家も近いやろ?」
どこまでも素直ではない。
「えっ?まだ昼の二時やぞ」
「…まあ、ええやんけ。たまには短縮授業もええやろ?」
「…短縮授業かあ…ほんで藤田は、どうすんねん?」
「うん?…俺も帰るわ!ほな又、明日な」
勲はペダルを踏んだ。
帰り道、麻植は安田美代子の家も教えてくれた。
麻植の情報では鉄工所の二階を借りて家族四人が住んでいるという。
成績優秀な文武両道の美代子が、全日制高校に入学せずに勲と同じ府立K高校の夜間に入ったのかが分かったような気がした。
それがどうだ。
自分はといえば、格好が悪いという心根から夜間高校を三ヶ月で辞め、就職していた麻植をそそのかして辞めさせ、中学浪人の仲間に引き込んだ最低の人間だ。
右端が由美の家だ。
玄関横に物干し竿、植木鉢が数個並んでいる。
勲は直感した。
由美は勲が浩子と付き合っているというデタラメな噂話を何故、真に受けたのか?
目の前の浩子の家―。
貧富の差―。
由美の小さな胸の内に、劣等感と嫉妬心が芽生えたに違いない。
勲は一層、由美のことが愛おしくなった。
「岡の家はなあ、鉄瓶を作ってる四代続く名家なんやど」
こいつはどうしてそんな情報を得ているのだろうか?
「ふ~ん…そやけどお前、何でそんなこと知ってんねん?」
「俺なあ、同級生らの家探すのんが趣味なんや!」
変な趣味だ。
しかし、今の勲にとっては有り難い趣味である。
「…ほんで、池、田の家はどこや?」
「おう、あっこや」
麻植が指さす。
浩子の家の向かいに四軒長屋がある。
浩子は大阪市立H高校に入学している。
勲が受験に失敗した高校だ。
「…俺は一体、何をしてるんや…アホ違うか…」
ブレーキを止め、勲は自問自答する。
浩子の家は大きな敷地に平屋の工場と二階建ての住居部分。
界隈では、ええしの家のようだ。
勲はほのかな想いを寄せていた相手のことすら何も知らない。
それぞれ自分の自転車に跨って、勲の家を後にした。
T中の横を走りながら勲は、校舎のどこかの教室で授業を受けている由美の姿を夢想した。
股間が勃起した。
十三間道路を南に下り、新道筋商店街を西に折れ、二筋目を左折する。
「ここや、ここが岡の家や!」
ブレーキを引いた麻植が指さす。
この家はどうでもいい、目指すは由美の家だ。
「……うっ…女や…」
「ふ~ん…女かあ?そやなあ…ひょっとして岡浩子の家の近くの池田かあ?」
勲の胸の鼓動が早まる。
「そ、そうなんや…岡の家の近所なんかあ?」
「おう、そやでえ、ほんでその池田がどないしたんや?」
「…麻植、一寸休憩して、岡の家のへんに遊びに行こか!」
「よっしゃ、休憩や休憩や!」
麻植は、勲の思惑に何の疑問も抱いていない。
「北海道は…じゃがいもやなあ…」
麻植が下手な、じゃがいもの画を描く。
「何やそれ?石コロやないかい!」
「放っとけや!どうせ俺は絵書くのん下手や!」
麻植が頬を膨らせる。
「……そう、怒るなや……それはそうと、お前…T中の一年下の池田いう奴の家、知ってるかあ?」
鹿児島県の名産物・さつまいもの絵を描きながら勲が、呟く。
「池田?男か女か?」
青森県のリンゴの絵に取り掛かっている麻植が答える。
受験勉強―。
勲と麻植は勉強部屋の二階八畳間に、まだ倉庫に残っている印刷用の白紙を一メートルの長さに切った紙を畳に置いて日本地図をマジックインキで描いている。
高校受験の試験には都道府県の名産物は何か?という問題がよく出ると、受験研究社の参考書に出ている。
それを暗記すればいいのだが、勲は画が好きなので地図を書いて都道府県別に名産物の絵を描くことにした。
浪人ならではの授業だ。
「やっぱり私みたいな年下なんかに藤田君は、興味ないのよね。
悲しいです。切ないです。私の片想いは、もう、終わりにします。
でも、藤田君…私の気持ちは一生変わりません!GOOD BAY! from YUMI」
ベッドに仰向けになって由美からの手紙を読み終えた勲の目尻から、スーッと一筋の涙がこぼれ落ちた。
「……何でやねん?…俺は浩子となんか付き合うてないわ!誰がそんなこと言いふらしとんねん!アホちゃうか!」
勲は、叫んだ。
その刹那、勲は由美のことが好きだと実感した。
由美からの手紙―。
「藤田君、お元気ですか?あの日のデート、とっても楽しかったです。
藤田君と手を繋ぎながらのハイキング。
途中の一願地蔵に『藤田君が私を好きになりますように…』と、願を掛けました。
山上の屋台で二人して飲んだラムネのおいしかったこと。
生まれて初めての〝間接キス〟。甘かった。
一生忘れることの出来ない素敵な想い出です。
でも、藤田君はどう想っているのでしょうか?私のことなんか、何とも想っていないのでしょう?…先日、クラスメートの女の子から『由美、あんたが好きな藤田先輩やけど……岡浩子先輩と付き合ってるらしいよ』って聞いたのです。
薄々知っていたけれど、ショックでした。
勲は母が亡くなってから、一階の奥の間で父と一緒に寝ていた。
父の横で母を想い、嗚咽を堪えて寝る日々が辛かった。
父は勲の横で高鼾をかいて熟睡している。
薄明かりの中で父の寝顔を見遣る。
「……お父ちゃんは、お母ちゃんが死んでも悲しないんかなぁ…」
十四歳の人生で味わった、えもいえぬ絶望感、虚脱感がない交ぜに襲ってくる勲にとって、父と床を一緒にすることが耐えられなかった。
兄は工場の二階の職人たちが使っていた部屋を父と一緒に、洋間に改造して自分の棲み家を作った。
そのお陰で勲も自分の棲み家を得た。
半分残ったおかずとご飯を残し、勲は二階の自分の部屋に駆け込んだ。
「あいつ、一体何言うとんねん!」
六畳の部屋のベッドに倒れ込む。
この部屋は下の兄が使っていた部屋だ。
兄が押し入れを改造して部屋を広くし、自分で作った手製のベッドである。
「誰や、池田いう女の子は?」
上の兄が何気なく聞く。黙っていて欲しかった。無視して欲しかった。
「…うっ…T中の後輩や…」
「後輩て、何や?」
兄の表情が勲を小馬鹿にしているように見えた。兄はアイスホッケー、下の兄はラグビー部、二人ともバリバリのスポーツマンだ。
クラブ内では縦の規律が厳しく、先輩、後輩の立場の差が確立されている。
そんな兄にしてみれば、倶楽部にも入ったことのない十五歳の中学浪人が、偉そうに〝後輩〟という言葉を発したことに違和感を抱いたのだろう。
ただそれだけのことに勲の拗ね根性が頭をもたげた。
以来、勲は上の兄が疎ましく思えてきた。
「…藤田君、中三の時、岡さんと付き合ってたでしょ?」
「……何やて?お前、今何言うた?」
「私、知ってんねんよ…」
「アホなこと言うな!一体、何を言い出すんや、お前、アホか!」
「……もういい…もういいんよ…」
由美は一方的に電話を切った。
勲は受話器を耳に当てたまま茫然自失。
何秒が経過したのか、勲は我に返る。
「…ふん、ふん、分かった…ほんなら又なぁ…」
間の悪い一人芝居を演じて、勲は台所に戻り受話器を置く。
二人でラムネを交互に飲み、由美の言った〝間接キス〟の初体験もした。
だが、その後どうすればいいのか、勲には想像だに出来ない。
中一の時、勲に自慰を教えてくれたケンボウとはもうとっくに疎遠になっていて、相談など出来ない。
今のこの事態をどう回避すべきか。
「藤田君、あのデート以来、何の連絡もしてくれへんでしょ?何で?」
「何でて…俺、お前の家の電話番号も、家の場所も知らん!」
声が大きくなって、高い天井の玄関に響き渡る。
電話での勲の会話は、台所に筒抜けだ。
「…そう…藤田君て冷たいんやね。私のこと好きやったら、電話番号調べて、掛けてくれたらいいのに…」
好きか嫌いかと言われれば、好きの範疇に由美は入る。
しかし、今の勲にとっては恋愛そのものがどういう事なのか分からない。
勲はこれまで電話で女となんか話したことがない。
というよりも、電話自体あまり掛けたことがない。
当時の親たちは子供が電話を使うことをよしとしなかった。
通信手段の電話は、大人の使うものという認識であったように思う。
父、二人の兄、そして恵子さんがニヤニヤ笑っている。
勲は台所の玄関側のドアを押し開ける。
一段下がった玄関の床に飛び降り、ドアを閉める。
受話器のコイル状になった電話線がドアを完全には閉めさせない。
「…ハイ…」勲は囁くように声を絞り出す。額からはドッと汗が流れ落ちる。
「藤田君?…由美です!」
「…そ、そんなこと分かってる!何の用や?」
「…用事無かったら、電話したらあかんのん?」
「…そんなこと言うてへんやろ!何の用や?」
「ほら、言うてるやないの。…今、何してんのん?」
「…皆で晩ご飯……違う、今は電話してるんやないかあ!」
「フッフッ…藤田君て面白いねえ!可っ愛い~!」
勲は、眩がしてきた。
池田由美から一通の手紙が勲に届いた。
真夏の生駒山へのハイキングのデート以来、勲は由美には会っていない。
どこでどう調べたのか一度、由美から自宅に電話が掛かってきた。
家族五人が夕餉をとっていた時である。
「…勲君、大丈夫?」
「当たり前やんか、あいつら中学時代の同級生なんや。そやけど、このことは兄ちゃんには絶対に内緒にしといてや」
「…うん、勲君と私だけの秘密にしとこ!」
姉は優しく微笑む。
「そやけど、姉ちゃん若う見えるんやなあ。あいつら、姉ちゃんのこと俺の彼女や思うとるで」
「あほなこと言いいなさんな」
満更でもない顔で姉が恥じらう。
二人は商店街を、目指す店の方に姿を消した。
「藤田、こいつ俺の弟分のサブや。俺なあ、今『三尺組』の若いもんになったんや、『三尺組』知ってるやろ?」
「 …浦添、お前、ヤクザの組になんか入ったんか?アホな奴やなあ。まあ、しゃあないわ、そやけど、あんまり無茶なことすんなよ。ほな俺は行くぞ」
勲は踵を返す。
「お前ら、ええ加減にせんかい!あれは俺の兄貴の嫁さんや」
と、小声で怒鳴る。
「隠さんでもええやないか、どこの女子高生や?」
中村が食い下がる。
「違う言うとうるやろ!ええ加減にせんかい!」
「何じゃあ、その口の利き方は!」
知らない奴が、凄む。
「辞めとけ、サブ!」
浦添が男を制止する。
「おい、藤田、俺や俺や、浦添や!」
「えらい、別嬪さんと一緒やなあ。藤田の彼女か?」
見遣ると、パチンコ屋の傍で父親が靴屋を出している、麻植が〝よつ〟と言っていた中村だ。
} 後の一人は知らない。
「藤田、デートか、どこ行くねん?」
「姉ちゃん、一寸だけ待っといて、すぐ来るから…」
勲はそそくさと三人に近づく。
「やばい!」と思った瞬間、「おーい、藤田やないか?」
黒の縮みのステテコ、七分袖の上っ張り、ラメ入りの紫の腹巻き、雪駄履きの奴が勲に声を掛ける。
一瞬、身を引いた姉が「あの子ら、勲君のお友達?」
と、怪訝な表情で問う。
「う、うん、ちょっと…」
勲は三人を無視して通りすぎようとする。
商店街を南に歩く。
この商店街のことなら勲は、隅々まで知り尽くしている。
商店街の中程には、生鮮食料品の店が並ぶ。
姉と肩を並べて歩く勲の視線の先に『大黒屋』というパチンコ屋が目に入る。
店の前に並んだ自転車の群に腰を下ろすチンピラ風の三人の若い男がたむろする。
勲を振り向きもせず、兄は中庭に向かって広縁で作業を続ける。
ヘラブナ釣り用の浮きを作っている。
手先の器用な兄は、孔雀の羽根の芯の部分を使って手製の浮きを作る。
趣味の多い兄だ。
女性用の自転車が無いので、深江橋の停留所からF駅北口前行きのバスに乗り、高井田で降りる。
勲の大好物『高井田ラーメン』のある所だ。
不味いことが起こる。
或る日曜日、勲は姉の買い物に付き合った。
いつもなら近所の市場で買い物をするのだが、料理のレパートリーの広い姉は、近鉄F駅商店街に行きたいと言い出した。
浪人生活、日曜日は勉強は休みだ。
「ほんなら、僕が一緒に付いて行ったげるわ。なあ兄ちゃん、ええやろ?」
「おう、そうしたってくれるか?」
「へえ、カボチャがスープになんのん?姉ちゃんは色んな料理知ってるんやなあ。なあ兄ちゃん、カボチャのスープやったら甘いのんは、当たり前やろ?」
勲が助け船を出す。
「そ、そらそうや、甘いのんは当たり前や、なあ、お父ちゃん?」
戸惑う兄の仕草に、食卓に笑いの渦が起こった。
以来、上の兄は姉の料理を「美味しいわ!」と言って、食べるようになった。
しかし兄は、新婚当初から関白亭主を決め込む。
「うむっ、このスープ、一体何や?甘過ぎるんと違うか」
ほら来た!ある晩ご飯のメニューの一品に、兄が注文を付ける。
「それはねえ、パンプキンスープよ」
姉は平然と応える。
「パンプキンスープ?何や?」
「パンプキン、知りません?カボチャのスープです」
姉以外、一同が狐に摘まれた表情になる。
下町の印刷屋の女将さんであった母と、船場育ちのいとさんとでは、味覚が違うのは当然だ。
二日と同じ料理を作らなかった姉は、花嫁修業で茶道、華道は師範の、日本舞踊では名取の免状を取得している。
嫁入り道具の和箪笥には夥しい和服が収められていて、見聞に来た近所の奥さん連中が舌を巻いたものだ。
そして、和裁、洋裁、料理教室にも通っていたことを、勲は後日に知る。
しかし、兄は注文が多い。甘いとか、辛いとか、味が薄いとか。
確かに母の味付けは濃かった。
鯖の煮付けにしても、玉子焼にしても、味噌汁なんかは名古屋味噌を使っていた。
勲には新婚ホヤホヤの兄が何故「美味しいわ」と言って、姉の手料理を食べてやらないのか不思議だった。
一ヶ月間、勲の新しい姉になった恵子さんは毎日、違うおかずを作った。
新装なった台所でかいがいしく動き、洋風の食卓にこれまで見たこともないメニューを並べる。
勲にとっては、まるで百貨店の大食堂で食事している気分だ。
一年間、父の横の布団で寝ることになった勲は、天井からぶら下がる丸い蛍光灯の豆電球の薄灯りの下で微笑む母の遺影を見遣り、毎夜すすり泣き続けた。
なのに今、一人の女性の存在が勲の悲しい心を包み込もうとしている。
「……僕が、大人になったということ?」
秋雨の煙る大安吉日のこの日から、藤田家の新しい生活は始まった。
葬儀の後、何処かの大人が打ちひしがれている勲の耳元で囁いた。
「…どんな悲しい事でもなあ、時間がそれを消してくれるんやでえ…」
大人の慰めの言葉が、勲には残酷だった。
あんなに好きだった母の事は、一生忘れられない。そうではない、忘れてはいけないのだ!
勲は誇らしかった。心の靄が一気に晴れた。
母が亡くなって一年三ヵ月余り。男所帯に一人の女性が加わった。
家の中が一気に華やいだ。
その反面、家のそこここに未だ母の面影が染み込んでいる。
それが薄れてしまうのだろうか?
勲はぼんやり仏壇の中の母の位牌を見つめている。
俯き加減の花嫁衣装が姿を現す。
見物客の拍手が一瞬、止む。
新婦が顔を上げる。
「うわあ、綺麗な花嫁さんやこと!」
「ほんまに別嬪さんやなあ!」
「いよう、三国一の花嫁!」
「お母ちゃん、うちもあんな花嫁さんになりたいわあ!」
老若男女が、口々に感嘆の声を上げる。
西の角を左折して、オースチンが姿を見せる。
誰からともなく拍手が起こる。
オースチンは、ゆっくりとブレーキを掛けて玄関前に止まる。
拍手が一段と高まる。
運転手が恭しく後部のドアを開ける。
母が先に降り、車内の新婦の手を取る。
新婦と母を乗せた黒塗りのオースチンを殿(しんがり)に、新郎と両家の親族が一足先に藤田家に到着。
藤田家の家紋〝下がり藤〟が染め抜かれた幕が、玄関を中心に左右の壁に張り巡らされている。
新郎と両家の父親を奥の間に残し、軒先に両家の親族が並び、新婦の到着を待つ。
秋雨は、小ぬか雨に変わる。
二杯目、新郎が又々首を傾げる。兄は下戸なのだ。
横の新婦がクスッと笑う。両家の親族にも笑みがこぼれる。
一方、新婦は戸惑いもなく三三九度をこなしていく。礒野家は酒豪揃いだと、勲は後で知る。
日本猿のように赤い顔をした兄と、しらっとした恵子さんは、晴れて太閤さんの前で夫婦の契りを結んだ。
勲には意味が理解出来ない長々とした神主の祝詞が終り、三三九度の固めの杯に移る。
二人の御子が御神酒と三つ組みの杯を持って新郎新婦の前に立つ。
新郎が突然、首を傾げる。
手に持った杯に御子が、御神酒を三回に分けて注ぐ。
新郎は杯をこれ又、三回で飲み干す。
これを新郎新婦とも、三つの杯で三回繰り返す。
荘厳な雰囲気の神前結婚式。
兄は紋付き羽織、袴。花嫁は文金高島田。白無垢の衣装が勲には眩しく映る。
白粉(おしろい)は襟足まで塗られ、化粧は三日月眉、目尻りには小さく薄っすらと紅を差し、おちょぼ口に紅を引く。
恵子さんが別人のように見える。
婚礼は大阪城の敷地の中に建つ『豊國神社』で執り行われた。
この神社には、大阪城ゆかりの豊臣秀吉公、豊臣秀頼公、豊臣秀長公が奉祀されている。出世開運の神様として、大阪の庶民に慕われる神社である。
晴れているのに降る雨のことを『狐の嫁入り』と言うのとは、どんな因果関係があるのかと勲は思う。
玄関から水溜まりの出来た地道には、先程父が真っ赤な絨毯の路を設えた。
自宅前には近所の老若男女が傘を翳し、今か今かと花嫁の到着を待ち構えている。
嫁入りの日。今日も秋雨が降り続く。
「せっかくの嫁入りやのに、いやな雨やなあ…」
自宅玄関の外に出、勲は鼠色の空を見つめる。
「『降り込む』言うてじゃなあ、嫁入りの雨は、縁起がええんじゃ」
徳島から婚礼に駆けつけた父の姉〝阿波のおばちゃん〟が勲の背中に語りかける。
恵子さんはミナミのS学園の女子大生。
友達と連れだって、流行りのアイススケートを楽しみにリンクに足繁く通ったのだろう。
そこで二人は出会う…。
勲のシナリオは、ざっとこんなところである。
二、三度勲は、下の兄と一緒にK大学のアイスホッケー部の試合を観戦したことがある。この時、リンクのどこかの席に恵子さんもいたのだろう。
勲に二人の馴れ初めなど分かろう筈がない。
想像するに…。
兄はK大学のアイスホッケー部の副キャプテン。ミナミの難波スケートリンクが練習場だ。
夜の九時、リンクが閉まってから練習を始める。それまで部員は入場者に混じってリンクでスケーティングをしたり、スケート靴の刃で削られた氷をU字型のトンボのような道具を使って、氷上を清掃する。
目立つ、格好いい。
兄は大学を卒業した二十三歳。まだ若い。
恵子さんは兄より一つ年上。
男の片親、高校生と中学浪人の二人の弟付き。どう考えても結婚相手として好条件の筈がない。
勲の父は口数の少ない職人気質。相手の両親を説得するような人ではない。
それでも恵子さんが嫁いで来てくれるということは、お互いが強く愛し合っていたからだろう。
磯野恵子。
大阪ミナミの南久宝寺にある釦の卸問屋のいとさん。
いとさんとは、大阪船場など良家の女の子や娘さんの敬称。
恵子さんは二人の兄と弟の四人兄弟。
ご両親は一人娘を男四人家族の藤田家に嫁がせることを渋ったようだ。
和箪笥を開け、和服棚を引き出し、一着々々、拡げては畳み、畳んでは拡げる。
勲の目には、失礼な行状に映るがこれがしきたりなのだ。
奥さん連中に笑顔で応対する女性。
この時初めて勲は兄の結婚相手を見る。
顔が小さくスラッとした体躯の美人だ。
秋雨前線が停滞し、ここ一週間雨がしとしと降り続く。
この日、藤田家に大型トラック二台分の嫁入り道具が運ばれる。
奥の八畳間一杯に嫁入り道具が展示される。
近所の奥さん連中が見聞に来る。
「藤田とこのおっちゃんと兄ぃちゃん、ごっつい器用やなあ!」
「そうやろ、トムソンなんか辞めて、家具職人か大工でもやったらええんや…」
勲は、不景気な家業に気を病む。
卓袱台はお役御免。デコラ張りの食卓に5脚の椅子まで手作り。
土間と八畳の間は、ピッカピカの洋風のダイニングキッチンが完成した。
勲が驚いたのは、大きなダブルベッドだ。
ラワン材で骨組みを作り、頭の部分にはお洒落な飾り棚まで付いている。
コンコン、トントンと金槌の音が、二階の勲と麻植の勉強する奥の間に響いてくる。
八畳間の畳を上げ、新しい土間の床と同じ高さに八畳間もPタイルで仕上げる。
これで土間と八畳間との広い洋風のスペースが出来上がる。
次に天井にも木枠を組み、化粧合板を貼り付ける。そしてステンレスの新しい流し台を設置し、その上に食器を入れる観音開きの棚まで作ってしまう。
こんな仕様の土間と台所では、嫁が嫌がるだろうと、父と兄は改装を始めた。
二人とも類い希なる手先の器用さの持ち主。まずは土間の改装。
流し、調理台などの備品を外に出し、竈を壊し、土間に角材や垂木で土台を作り、その上にベニヤ板を張り、さらにPタイルで床を仕上げてしまう。
土間を上がると八畳間の食事部屋。
祖父が存命の頃は父母と五人の兄弟姉妹に、女中と三人の丁稚奉公の職人合わせて十三人の大所帯。
二つの大きな円形の卓袱台で家族九人が、女中と丁稚は部屋の隅で箱膳で食事をとる。
高い天井には今は使っていないガス燈がぶら下がっている。
祖父の建てた藤田家は、一五〇坪の土地に総二階の家屋と印刷工場、倉庫の三棟。
台所は、土間に竈とタイル製の流し、調理台、氷の冷蔵庫、食器を仕舞う茶箪笥などが配置されていた。
さすがに竈は、勲が物心付いた頃には使用されていなかった。
養子に出た医者の兄や、嫁いだ姉、そして親戚たちは、上の兄の結婚を望んでいた。
下の兄は知っていたようだが、勲は上の兄の結婚相手の存在すら知らされていなかった。
今になって思うと、三ヵ月ほど前から父と上の兄が土間と台所の改装を始めたのは、嫁入りの準備だったのだ。
世間では夏休みも終わり、残暑の初秋を迎え、裏の田圃の稲穂も黄金色に色づき始めた。
藤田家に花嫁がやってきた。
父の跡を継いだ上の兄が結婚した。
父と二人の兄、そして勲と藤田家は男所帯。〝男鰥(やもめ)に蛆が湧く〟。
藤田家では三人兄弟がお互い役割分担で一年余り家事をこなしてきた。
勲の心の中では、麻植に内緒でこっそりデートした後ろめたさと、初めて女と腕を組んで歩いた秘め事のような体験が交錯していた。
これまで男同士でしか遊んだことのない勲にとって由美の出現が、何かの支障になるような気がした。
そんな危惧が現実のものとなるのに、そう時間はかからなかった。
布団の掛かっていない炬燵を勉強机にして、向かいに座る麻植が気落ちした表情で社会科の教科書に視線を落とす。
何故、勲は親友に対してこんな言葉を吐いてしまったのだろうと悔いた。
自分でも分からない。
昨日の由美とのデートを勲は麻植に言うつもりはない。
中学浪人の分際でデートどころではない。
月曜日が来た。
「藤田、昨日どっか行ってたんかあ?」
「べ、別にぃ…何でや?」
「俺、暇やさいに昨日家に来たけど、おっちゃんが『勲は、えらいやつして朝から出でいったでえ』言うてはったからな」
「ほっとけや、日曜日ぐらい何しようと俺の勝手やろ!」
「…そらそうやなあ、藤田の勝手や…」
テニスの練習で日焼けした由美の細い喉が脈々と上下する。
股間が一層硬くなる。
「おいしい!…これで私と藤田君は、間接キスしたんやよ!」14歳の少女が精一杯、悩ましい眼差しで勲を見つめる。
股間は一時間以上も立ちっぱなしで、尿道からは粘液が出っ放しで、勲の初デートは終った。
「藤田君、喉渇いたでしょ?はい、ラムネ!」
「池田のんは?」
「ええからはよ飲みなさい!」
「年下のくせに姉ちゃんみたいな口利きやがって…」
心で呟きながら勲はラムネを一気に喉に流し込む。
「あっ、全部飲んだらいやや!」
そう叫びながら由美は勲の手からラムネ瓶を奪い取る。
今度は頭の中がガンガンしてくる。
幸代とも浩子とも美代子とも、ろくすっぽ話などしたことのない勲にとっては、衝撃の体験である。
「…一体どないなっとんねん?チンポ、いつまで立ってるんやろか?」
由美は腕組みしたまま掌を合わせ、瞑目して願を掛ける。
自然、勲の左手も上に上がり、合掌のポーズを強いられる。
勲は目を開けたまま由美を見遣る。由美の目が開く。咄嗟に勲は正面を向く。
「ねえねえ、藤田君、私、何をお願いしたか分かる?」
「…心霊師やあるまいし、そんな事分かるかあ!」
勲の気の一点は、股間の異常事態に集中している。
「…教えたげよか?…あんなあ、『藤田君が私の恋人になってくれますように!』って、お願いしてん!」
今日のデートコースも由美の言いなりに勲は、ただただ付いてきただけである。
由美の強引なデートの誘いを勲は断り切れなかった。
断って由美を傷つけたくなかった。
と、言うよりも女との付き合い方を勲は、知る術がないのだ。
今日のデートコースも由美の言いなりに勲は、ただただ付いてきただけである。
由美の強引なデートの誘いを勲は断り切れなかった。
断って由美を傷つけたくなかった。と、言うよりも女との付き合い方を勲は、知る術がないのだ。
腕組みされ、体の左半分に密着する由美のショートヘアが発する甘酸っぱい香りが、勲の鼻腔に忍び込む。
にわかに股間は勃起し、睾丸は縮み、陰茎は熱を帯び、心臓の鼓動と同期し、脈を打つ。
T中の夏休みも終わりに近づいた或る日曜日。
勲は池田由美に左手を掴まれ、腕組みされながら生駒山の小径を暗峠(くらがりとうげ)目指して登っている。
近鉄・奈良線の枚岡駅で下車した途端、由美が腕組みしてきた。
当然のことながら女と腕を組むのも初体験なら、デートするのも初めてだ。
思春期の肉体は敏感に反応を示す。
「ええケツしとんなあ…足も綺麗やんけ…」
砂場の砂を右の掌で掴み、指の間から放り捨てながら、コートを眺めている。
勲は幸代にしても、浩子にしても、それに美代子を、そんな目で見たことは一度も無い。
勲の肉体は確実に思春期を迎えていたのだ。
「私…二年生の時から…藤田君に憧れてたんです!そやけど藤田君は無視してたでしょ?」
「おい、いつから藤田君や?先輩違うんかい!」
胸の内で罵倒する悪態がエスカレートする。
「ボール拾ってくれて、ありがとう!……今度、デートしてね!」
池田由美と一方的に名乗った女が、テニスコートに駆け足で戻る。
「藤田先輩でしょ?」
「…お前に先輩言われる筋合いは無い!」
「そうそう、先輩は陸上部でしたねえ!」
人なつっこい奴だ。
「なんも知らん奴っちゃなあ…陸上部は卒業のアルバム撮影のためだけに集まった、俄部員じゃ!」
勲は心の中で悪態を吐く。
「私ねえ、その撮影の時、二階の校舎の窓から見てたんです!先輩だけが校名の入った白いランニングシャツ、着てはったでしょ?カッコ良かった!」
「アホか!あれ一着しかなかったんじゃ。ほんで、俺の権限で着ただけじゃ!」
心の悪態は続く。
「…胸の大きい奴っちゃなあ…」
勲が呟く。股間が疼く。
「藤田先輩でしょ?」
女子部員が物怖じしない様子で勲の横に座る。
一瞬、勲は尻をずらす。すると女子部員は、尻を勲に近づける。馴れ馴れしい奴だ。
「お前、誰や?」
戸惑う勲。
「三年の池田由美です!」
女は満面の笑みをたたえている。
目の前では、軟式テニス部がサーブの練習に励んでいる。
焦点の定まらない勲の眼差しの視界にテニスボールが、転がって来る。女子の部員が駆け寄ってくる。
足元のボールを掴み、勲は女子部員に向かって投げ返す。
「ありがとうございます、先輩!」
胸の辺りでボールを受け止めた女子部員が、勲を見つめ、微笑んでいる。
勲は鉄棒にぶら下がり、蹴上がりし、鉄棒を跨ぐ。
両手で鉄棒を掴み、右に上体を落とす。
遠心力を付け、ブルン、ブルンと回転を繰り返す。〝人間風車〟…。勲の得意技。
放課後、辻木幸代や岡浩子、安田美代子らの視線を意識しながら、粋がってよくやった技だ。
鉄棒から飛び降り、砂場の縁に座る。
切なく辛い、苦い想い出が昨日の事のように、勲には思えた。
シートノックを終えたマンボと視線が合う。勲はソッポをむいてベンチから立ち上がり、鉄棒のある砂場に歩を進める。
在学中の勲の言動を知る野球部の部員たちは、勲から目をそらす。
「…学校なんか来んといたら良かった…」
職員室中の視線から勲は、一刻も早く逃避したかった。
「……とにかく、来春、再受験します…」
勲は燃えたぎる心根を悟られまいと、必至に冷静さを装い、ゆっくりと職員室を後にした。
「大人は、汚い!」
長く続く校舎の廊下の先が、霞んで見えなかった。
「…もういっぺん受験するて、藤田、お前の内申書には警察に補導され…」
ここでポンタは、口をつぐんだ。
そうだったのか!
勲は受験に失敗した真実を今、初めて知る事となる。十五歳の少年の挫折は、自身の補導歴に起因していたのだ。
それならそうと、市立H高校の受験に失敗したことをポンタに報告した時、真相を話してくれれば良かったではないか!
そうしたら勲の心は、ある意味で癒されたはずだ。
自業自得と納得できたはずだ。
「森田先生…俺…夜間高校…辞めます」
「…辞める?その訳、話しましょ」
いつもの口調で、ポンタが言う。
「…来年、もういっぺん高校を受験します… 」
ポンタの席の横に座っていた勲に、職員室中の教諭たちの視線が集まる。
中学浪人して来春、再受験するには担任のポンタに願書と内申書の提出を頼まなくてはならない。
夏休みの校庭では、野球部と軟式テニス部が〝夏練〟に汗を流している。
勲はバックネット横の藤棚のベンチに座り、野球部の練習を見遣る。
顧問のマンボこと永井教諭がシートノックを繰り返す。
卒業以来、T中に顔を出したことは一回しかない。
日曜日だけは、浪人生活も休みだ。
勲は父と上の兄、そして自分の昼食を作り、食べ終え、食器を洗うと何もすることが無い。
父と兄は、このところ台所と土間の改装作業に余念がない。
「…お父ちゃんと兄ぃちゃん、一体何してるんや?トムソンの仕事もせんと、大丈夫なんやろか?」
所在のない勲は、ぶらっと表に出る。
「こんなんやったら、日曜も勉強にしといたら良かった…」
…土手の柳は、風まかせ…。
勉強以外することのない浪人は、T中学に向かう。
「藤田!何してんねん?はよ座ってキャッチャーやらんかい」
我に返る。
「…そうや、俺は麻植と一心同体なんや。こいつと一緒に勉強して絶対、受験に勝たなアカンのんや!」
勲は気を取り直して、強く心に誓う。
父の跡を継いだ兄の仕事も順風満帆とはいかない。
自分自身で選んだ中学浪人の道。
周りの誰にも相談できない。
辛い、寂しい。
急に勲の体内に虚脱感が襲う。
ましてや、就職していた麻植に会社を辞めさせ、自分と同じ中学浪人に誘い入れた。
仲間が欲しかっただけの我が儘。
もし、麻植が来春の高校受験に失敗すれば、勲はどう責任を取るのか?
ふと、そう思うと勲の小さな胸にやるせない、不安の塊が徐々に形作られていく。
父は勲の思うようにさせてくれている。
自業自得。
黄泉の世界へ旅立ってしまった母の枕辺で「医者になる!」と、誓った勲。
泣いた烏が、もう笑う。
身勝な勧善懲悪の集団『MF倶楽部』を結成し、いい気になっていた自分。
勲以外の六人のメンバーの内、本岡と村瀬、ゴンボにタモンは私立高校に入学。
バッタと吉田は、町工場に就職した。
宙ぶらりんなのは、自分だけ。
自宅で麻植と二人で勉強している姿を見ることのない大人にとってみれば、日がな昼間にキャッチボールをしている15歳のグウタラにしか見えない。
自転車で通ってくる麻植は何も感じていない様子だが、勲は近所の大人の冷ややかな眼差しを敏感に感じ取っていた。
「何がどうなって、俺はこんな生活を送らなアカンのや!」
毎日、同じ事の繰り返しの『体育』の授業。
しかし、こんな二人の行状を理解する近所の大人はいない。
薄々、勲が高校受験に失敗し、中学浪人になっていることを知る大人もいるにはいる。
バシッ!
麻植のキャッチャーミット目がけて軟球の直球を投げ込む。
「痛ぁ!」
勲の球が速いわけではない、麻植は左手の人差し指を体育のバレーボールの時、突き指をして先が内側に曲がっている。
「すまん、すまん、今度は俺がキャッチャーやるわ!」
お互いグローブを投げ交い、役割を替える。
中学浪人生活に夏休みは無い。
勲の作った受験勉強のスケジュールは、毎日午後一時から二時までは『体育』だ。
自宅前で麻植を座らせ勲がピッチャーだ。
小学校のソフトボール部を作った時、勲はピッチャーで四番、そしてキャプテンだった。
誰が認めた訳でもない、自分勝手に決めたのだ。
三人は一目散に北に走り、お好み焼き屋『鶴見』の横の細い路地に逃げ込む。
その路地を右、左に折れて道路に出たところが、T中学の北西角。
右に行けば風呂屋の倉庫、南隣が上村の家。
瞬間、勲と女性の視線がバチッと合う。アッ!と言う表情と同時に女性は手拭いで胸を隠す。
「あかん!見つかった!」
勲の叫び声に瞬時に反応した麻植と上村は、勲に続く。
外庭を西に走りブロック塀をよじ登り、外に次々飛び降りる。
そこは風呂屋の表、通行人が三人の行動を見遣る。
風呂上がりの濡れた長髪が肩に掛かり、これ以上はない色香を醸し出している。
三人はいつの間にかしゃがんだままの姿勢で、格子ににじり寄る。
もっと間近で大人の女の肉体を観察したかった。
茂みの先の光景は、何度も覗きを経験している上村は除外して勲と麻植にとっては、女の園のパラダイスだ。
年寄りもいるが…。
突然、一人の女性が手拭いを右手に垂らし、肌も露わに外庭のガラス格子に近づいてくる。
ある夜の自由時間、勲と麻植は上村に半強制的に先導させながら忍者よろしく、先の動線を抜き足、差し足、忍び足で進み、ボイラーマンにも見つからず、外庭に無事軟着陸。
このポイントをクリアすれば、その先に風呂屋の女子浴場の外庭の上に通じる場所に辿り着く。
飛び降りると外庭に着地する。
庭木の茂み越しの先は、浴場から出てきた女性達が体を拭く場所が垣間見られる。
上村の家の北隣には風呂屋『深江温泉』の燃料倉庫がある。
廃材やコークスの燃料が山積みされている。倉庫の西側がボイラー室。
上村の家の二階の北窓を出ると、隣の倉庫の塀の上に降りられる。
10センチ幅の塀を西に歩いて行くと、右下にボイラー室。
ボイラーマンに見つかれば一巻の終わりだ。
T中学の正門前に三年の時の同級生、上村の家がある。
学校に一番近い生徒で、自宅玄関から正門まで僅か徒歩一二歩。上村は私立のB商業高校に入学していた。
勲は上村が興味深い行動をしていると言う情報を、小耳に挟んでいた。
ブレーキバーを握ると糸がピーンと張り、懐中電灯のスイッチが動き、電灯は点灯する。大成功!とは、いかない。ブレーキバーを放すと、糸が緩む。懐中電灯は点灯したまま。切れない。勲は荷台に行き、手でスイッチをOFFに戻す。馬鹿々々しくなって、ブレーキ&ランプの粗末なシステムを撤去した。この作業の顛末は、後ろの泥よけに豆電球の虚しい穴が一個、空いただけだった。
赤い豆電球は点灯した。大成功!とは、いかない。
左のブレーキを握ると後ろの泥よけの赤い豆電球が点灯しなければ、何の意味もない。
ブレーキとバッテリー、豆電球との相関関係―。そんなこと、勲も麻植にも考えは及ばない。
情けない。
結局、勲は懐中電灯を荷台のセンターに後ろ向きに取り付け、ON・ OFFのスイッチ部分にタコ糸を黒のビールテープで貼り付け、糸の先をブレーキバーに結い付ける。
不器用な勲は松本の二つの〝電飾の輪〟とはいかないが、ブレーキランプを作ろうと考えた。
ハンドルの左ブレーキを握ると後ろの泥よけに赤いランプが点灯する、という案配だ。
勲の頭の中の設計図は・・・
①後ろの泥よけに穴を空ける
②外側から赤い豆電球を入れる
③内側から電極を取り付ける
④電線を後部荷台に取り付けたバッテリーに繋ぐ
「外せ…」勲は呟く。
麻植は支柱のてっぺん部分の蓋を左に回し、キャップを外す。勲は右手を突っ込み、豆電球と繋がっている電線を抜く。その手で長方形の小型バッテリーを掴み出す。麻植がキャップを閉める。知らん顔の半兵衛で二人は自転車に跨り、帰路に就く。立派な窃盗犯だ。
次の日の夜七時からの自由時間。
勲と麻植はそれぞれ自分の自転車に跨り、J区の国鉄の放出(はなてん)駅に向かう。
前夜、松本が駅横で道路の舗装工事が行われていることを教える。二人の目的は豆電球用のバッテリーだ。
舗装工事はすでに終り、工事現場には赤い豆電球だけが点滅している。
勲と麻植は自転車を降り、つかつかとバッテリーが入っている黄色いプラスチック製支柱の所へ行く。
自転車を分解し、車輪のスポークを外し、リムとタイヤも外す。
リムに豆電球をはめる径の穴をドリルで空ける。その穴に豆電球をはめ、電線をリムの内側に入れて、結線する。リムにタイヤを戻し、自転車を組み立て直す。
電線の束の先を荷台に取り付けられた小型のバッテリーに繋ぐ。
スイッチを入れる。豆電球が点灯する。
夜の街を疾走する。二つの〝電飾の輪〟が幽玄の世界を創り出す。
松本の説明を聞いても勲は、何の事やらチンプンカンプン。極端に機械に弱い。唯一、理解出来たのは小型バッテリーが、道路工事現場に夜間点滅している豆電球用の物だということだけだった。
「……」
勲は、二つの〝電飾の輪〟をジーッと見つめ続けている。
ドロップ・ハンドルのスポーツ自転車の両輪のリムには、赤色の豆電球が五センチ間隔で取り付けられていて、点灯している。
「……これ、お前が作ったんかあ?」
「そうや…」
勲は呆然とリムを見つめる。
「…どうやって、作ってん?」
有沢は左足を軸に、その場で左回転の姿勢に入る。
ハンマー投げの回転の要領だ。操縦桿と機体を四五度の角度に保って、有沢は左回転を繰り返す。
轟音をまき散らしながら有沢のエンジン飛行機は、飛行を続ける。
「よっしゃ、松本、エンジン掛け!」
「オーライ!」
松本が右手でプロペラを回す。三回ケッチンを喰らう。
ブルッ!ブルッ!ブル~ン、ブル~ン、バリバリバリバリ~ッ!エンジンが掛かる。
有沢は機体と操縦桿のワイヤーをピンと張る。
機体が凸凹の田圃の土の上を滑走し始める。
その刹那、有沢はワイヤーを左に振りながら操縦桿の取っ手を上に上げる。機体が徐々にスピードを増して離陸を始める。
有沢のエンジン飛行機の飛行場は、T中学の東に広がる田圃だ。今は休耕田になっている。そのうち何かの工場でも建つのだろう。
田圃の真ん中に有沢と松本が立つ。真っ赤なラッカーで塗られた機体は、輝いている。そこに松本がしゃがんでいる。
機体の中央には二本のワイヤーが上下に取り付けられている。そのワイヤーの10メートル先に操縦桿がある。
有沢はコ型の操縦桿を右手で縦に握る。取っ手を上に上げれば尾翼が上がり、下に下げれば尾翼が下がる。
カチャッ!カチャッ!何回かケッチンを喰らう。
ブル、ブル、ブル~ッ、ブル~ッ、ブル~ン、ブル~ン、バリバリバリバリ!
プロペラが回転を加えていく。
板が小刻みに振動する。松本が板を両手で押さえる。エンジンテストは大成功だ。
有沢がパイロットで松本が整備士といった役回りか。
小学時代、トヨエースを運転したときの運転手・有沢、車掌・勲と同じだ。
有沢農機の広い敷地の工場の片隅で、有沢と松本はエンジンの試運転を始める。
縦五〇センチ、横一五センチ、五センチの厚みのある板にエンジンを取り付け、プロペラを装填する。
タンクに燃料を入れ、点火スイッチをONに倒す。
有沢が右手の中指と人差し指二本で、プロペラを力一杯下へ回す。
松本博。家業は『伸線屋』。
様々な径の鉄線を伸ばす機械に通して、直径一メートル程の鉄線の束に巻き上げていく仕事だ。
この鉄線は、釘やブロック塀を積み上げていく時の芯などの加工品に使う。
幼い頃から機械いじりの好きだった有沢と松本は、エンジン飛行機で繋がりを持つ。紙飛行機しか作ったことのない勲らにとって、エンジン飛行機は夢の飛行機だ。
それを有沢は持っていた。やはり有沢はとびっきりの〝ええし〟だ。
「藤田、こいつ三年の時の同級生の松本や、知らんか?」
有沢が紹介した松本が右手を挙げて応える。見たことの有るような無いような奴だ。
「これ、こいつが発明しよったんや!」
有沢が誇らしげに二つの〝電飾の輪〝を指さす。
辻々の角の外灯の間に、二つの〝電飾の輪〟が、不気味にこちらに向かって侵攻して来る。
「何じゃとて?」
勲は、狐に摘まれる。
「藤田、俺や、俺や!」
二つの〝電飾の輪〟の後方から有沢幸男の姿が見える。
二つの〝電飾の輪〟が、勲と麻植の目の前に止まる。
「何じゃ?こりゃ!」
黒蜜に濡れた唇を尖らせて、勲は訝る。
勲の作った勉強のスケジュールに従って、二人の受験勉強は順調に滑り出す。
ある日の夜七時、自由時間に勲と麻植は横町の『今井』という長屋の一階で駄菓子屋を営んでいる店で、黒蜜のかき氷を頬張る。
「うっまいなあ!かき氷はなんちゅうても、黒蜜が一番やなあ!」
勲は、かき氷の冷たさで目と目の間の鼻頭を押さえながら、感嘆の声を発する。
「う?…なぬ?…あ、あ、あれ何じゃあ!」
隣の麻植が驚嘆の声を上げる。麻植に釣られて勲が、右手の地道の彼方を見遣る。
麻植は毎朝、八時四五分には雨の日も風の日も自転車でやってくる。
就職した初月給で買った、新ピカのスポーツ自転車だ。ハンドルは勿論、ドロップだ。
勲は義兄の元刑事、和男さんから貰った自転車だ。
麻植の新品が羨ましかった。
まずは勲、得意中の得意の勉強のスケジュール作りから始める。
☆朝の九時から十一時までは、月→国語 火→算数 水→理科 木→社会 金→英語 土→保健体育を、三年生の時の教科書で復習
☆日曜日は休み 祝日は勉強
☆十一時から午後一時までは昼食と夕食の買い出し・調理 十二時昼食&休憩
☆一時から二時までは毎日・体育
☆二時から三時までは毎日・昼寝(幼稚園児か!)
☆ 三時から五時までは、午前中同様の国語・算数・理科・社会・英語・保健体育を、受験用参考書で復習&テスト
☆ 五時から夕食準備 六時夕食&休憩
☆ 七時から九時までは自由時間
二時から三時までの昼寝と、七時以降の自由時間のスケジュールを除けば、完璧な学習内容である。
下町の蒸し々々した七月、二人の【受験戦争】が始まった。
二階の奥の間の端に電気炬燵を置き、勲は洋服箪笥を背に、向かいに麻植が座る。冬になれば炬燵に布団を掛けて電気を入れて暖を取る。完璧な勉強コーナーだ。
京間の八畳は布団二組を敷いてもまだ余裕がある。
麻植が泊まりたい時には、ここで寝る。
麻植の父も、事の次第を妻と子から聞いて了解してくれた。
勲は何か胸の奥に痞えていたものが吹っ飛んで、晴れ晴れしい気分になった。暗雲の隙間から光明が差し込み、急に未来が開けたように感じた。
夜間高校を辞めた勲と、H無線を辞めた麻植は【中学浪人】となった。
「…しゃあないなあ…そやけど藤田君とこに迷惑かからへんかあ?」
「大丈夫です!お父ちゃんも、二人の兄ぃちゃんも麻植君と一緒に受験勉強することに大賛成です!」
「ふむ、こら、彦ちゃん、お前ほんまに受験する根性あるんか?」
「……うん!僕、ほんまは高校行きたかったんや!」
「何言うてんのん!お母ちゃんが高校行き言うたのに、お前が就職する言うて就職先、勝手に決めてしもてたんやないか!」
「堪忍…お母ちゃん、お願いや、僕、高校行きたいねん!」
「…分かった。お前がそこまで決心してるんやったら、お父ちゃんにお願いしてみぃ」
父は勲の考え方に、すぐ賛成してくれた。今度は上の兄も二人で勉強することに理解を示してくれた。
麻植の母に勲は―。月曜から土曜日まで毎朝九時に麻植が自転車で勲の家に来る。昼食と夕食は勲と麻植が市場で買い物して来て、勲の家族分も作る。
夜も九時まで勉強する。日曜日は休み。但し祝日は勉強―と、説明した。
夜の九時までの勉強は遊びに回す―。
勲の策略だ。
「そうや!勉強だけやないぞ、ちゃんと体育の時間も作って、家の前で俺とキャッチボールするんや!」
「キャッチボールかぁ、ええなあ、おもしろそうやなぁ…」
「そや、おもろいぞ!」
麻植と話しているうちに勲はもう、その気になっている。
「まあ、うちのお母ちゃん、藤田のこと気にしてるしなあ」
「気にしてるて、どういうこっちゃ?」
「中学の校外教授や体育祭の時、お母ちゃん、藤田の弁当作ってくれたやろ? …お前が早ように、お母ちゃん亡くしたことを、うちのお母ちゃん気にしてるんや」
「… そうやったんか…おおきに」
「そやけど、お前が話しするいうても、俺、家で勉強なんかする自信無いわ。それに、叔父さん夫婦と同居やしなあ…」
「大丈夫や!俺の家で一緒に受験勉強したらええんや!」
「えっ、藤田の家でかあ?」
「麻植、お前仕事おもしろいか?」
「おもしろないけど、どうしょうもないわ…」
「そうかぁ……ほなどや、お前…、俺と一緒に来年、もういっぺん高校受けてみいひんか?」
「……来年?……高校受ける?……そんなん無理に決まってる!親に言うたら…どつき回されるわ」
「お前とこ、うちみたいにお父ちゃんおとなしいやろ?ほんで、お母ちゃん怖いやろ?」
「藤田の知っての通りや」
「ほな俺が、おばちゃんに話してみるわ!」
上の兄はこの勲の身の処し方に反対したが、父が説得してくれた。
幼稚園を三ヶ月で退園した時、父が母を説得したように…。
幼稚園と同じように、勲は夜間高校を三ヶ月で辞めた。
「お父ちゃん、僕、夜間高校辞めたいねん」
「……せっかく入学出来たのに、また何で辞めるんやあ?」
「入学いうても、試験受けんかて誰でも入学できるんや。それが、夜間高校や。そ、そやから僕、家で勉強する!」
「…そらええけど、家で勉強してどないするんや?」
「あのなあ、しっかり勉強して来年また高校受験する!」
「…そうかあ、それやったら勲の思うようにしたらええがな。頑張りや!」
村上は夜間高校に通いながら来年また希望している府立O高校を受験するという。
クラス一番の秀才だった村上には、目標がある。
この姿勢と努力に勲は、参った。
夜間高校は四年で卒業。これからの四年間を夜間高校で過ごすのかと思うと、勲は憂鬱な気分に襲われる。
仕方なくT中の制服の金ボタンを、紋章の入っていない既製の金ボタンに付け替え、制服姿で通学した。
下校してくる全日制のK高校の生徒と行き交う。勲の劣等感が増幅する。
中学の同級生の村上はT中の金ボタンのままの制服で通学している。
金ボタンを付け替え、格好ばかり気にする自分が、惨めったらしく思った。
そういえば、映画『高校三年生』で主演の舟木一夫は、学生服に白い靴下で黒の革靴を履いていた。
舟木一夫のファンの麻植と見たのだが、勲はもやしみたいな舟木一夫が嫌いだった。
兄に濃紺の紳士用靴下を貰い、黒の革靴を履いて高校に通った。
しかし、革靴に合う服を勲は持っていない。
勲は村上や美代子が居る事で気を取り戻して、夜間高校に通った。
夜間とはいえ入学した勲に父は、黒の革靴を買ってくれた。生まれて初めて勲は革靴を履いた。
「勲、木綿の白い靴下なんか履いて、お前なんや、舟木一夫みたいやないか。格好悪いぞ」
下の兄が勲のファッションセンスにアドバイスを送る。
お好み焼きを食べ、山根と別れて二人は家路に着く。
「藤田、夜間、辞めたんか?」
「ああ…」
「また何でや?」
「何でや言われてもなあ… 」
「そやけど、おっちゃんや兄ぃちゃんに怒られへんかったか?」
「うん、ちゃんと説明して納得してもろた…」
事の顛末はこうだ。
「すまん、確かに俺はこいつが何か、気にいらんのや。そやけど、これからは仲良うするさかいに、堪忍してくれ…」
「…そうかぁ…悪かったなあ、すまんなあ、ほんならここで握手といこかあ」
麻植と職人は握手を交わす。
「お前、名前何ちゅうねん?」
「山根や…」
「ほんで、どこの中学やった?」
「J第五中や」
「ほう、J第五中か?お前、俺のこと知ってるか?」
「……T中の、藤田、やろ?」
「何や、知ってたんか?」
麻植が相好を崩す。
「ほな、俺の奢りで、お好み焼きでも食べよかぁ」
麻植は現金な奴だ。
工場の敷地の南側にどぶ川がある。その土手に上がる。
「い、い、一体、何の用事や?」
「じゃかあしわい!おのれ、こいつをえらい可愛がってくれてるらしいなあ?」
「…可愛がるて、麻植、どういうこっちゃ?」
「お前、いっつも作業中、俺にちゃちゃ入れてくるやないかい!なめてんのかあ」
「そんなつもりや無い。ただ俺はやなあ」
「ただ、何じゃい!われ、なめとったら承知せんど!」
勲が胸ぐらを掴む。
「どいつや?」
「もうすぐ出てきよる…」
勲は門を見つめる。
「藤田、あいつや、あいつや!」
麻植の言葉もよそに、勲はつかつかと同年代の職人に近づく。
「おい、ちょっと顔貸せや!」
くるりと体を回し、勲が歩き出す。
「何でもええんじゃ!黙ってついて来い」
麻植が職人を急き立てる。
H無線―。この当時ではハイテク企業だ。
その工場の門の前に勲は、午後五時、七分袖の縮みの黒シャツに紫色の腹巻き姿、下駄を履いて突っ立っている。
工場のサイレンが鳴り、従業員たちが出てくる。
「おう、藤田!待たせたなあ」
麻植が自転車を押しながら勲に近寄る。麻植は卒業してこの無線工場に就職した。
村瀬が何故そんな事情を知っているのか、勲は不思議だった。
野球部だった村瀬の二年後輩に美代子の弟が入部していた。勲も弟の存在は知っていた。その弟からの情報だった。
勲は何か勇気が沸いてきた。
しかし、勲は夜の学校で美代子に話しかけることはしなかった。
格好が悪い。
格好ばかり気にする自分に謙悪感を覚えながら…。
もうひとつ勲を驚かせたのは、あの安田美代子も入学していたことだ。
常に五百数十人中、五十番以内の成績を上げていた美代子が夜間高校に入学している。
勲は美代子に好意を持ってはいたが、家庭環境のことはほんど知らない。村瀬の言うところによると、美代子の家はあまり裕福でなく、昼間は働いて家計を支え夜、勉強する道を選んだのだという。
驚いたことに三年の同じクラスで一番成績の良かった村上も夜間高校に通っていた。
第二学区で一番頭のいい生徒が進学を目指す、府立O高校の受験に失敗したのだ。勲は、ホッとした。
「あの村上でさえ、受験に失敗しよったんや。俺みたいに、ろくすっぽ勉強もせえへんかった奴が、入試に落ちるのは当然の話や」
例によって身勝手な考え方である。
勲は、ポンタの薦めで兄の通っていた府立K高校の夜間に入学した。屈辱だった。
夜間高校に通う夜の六時、勲はT中学の横の道は通らず迂回し、深江橋のバス停から通学した。
クラスの生徒は年齢もバラバラ。年長者は四十を過ぎているおばさんも居た。
勲のせいで羽白は、死んだ。母の死と一緒だ。と、勲はまた、懺悔する。
前栽中庭の小さな池の横の土を掘り、勲は羽白の亡骸を埋めた。
母の写真の入った金のロケットと一緒に…。
「もう、ゴメンや…こんな事、もう、ゴメンや……」
辛い二つの記憶を勲は、こんな形で封印した。
受験に失敗した体験も葬り去りたかった。
イタチに襲われたのだ。タラップの戸を勲は閉め忘れていたのだ。
「何でやねん!お前、しっかりせい!死んだら嫌や!目ぇ開けてくれ!」
勲は、絶叫する。
あの日、勲が母の病床で黄泉の国に旅立とうとしている体にしがみついた記憶が蘇る。
「いやや!お母ちゃん、死んだらいやや!」
一週間前、勲が朝の鳩飛ばしに鳩舎に行く。
いつものように北側の戸を開け、鳩を表に出す。勢いよく鳩の一団は上空に舞い上がる。勲は空を見上げる。
「……おらへん、羽白がおらへん!」
いやな予感がした。鳩舎内に目をやる。
「……おい!どないしたんや?おい、一体どないしたんや!」
亜麻色に手羽先だけが真っ白な、勲が一番気に入っている羽白が、首から血を流して床にぐったり倒れている。
勲は足早に家に入り、二階に上がり、踊り場の戸を開け、板の通路に出、物干し場から裸足で倉庫の屋根の上に立つ。
勲が編み出した口笛を吹き、餌をタラップ上に蒔き、鳩らを鳩舎に無事、入れる。
藤田鳩舎を伏し目がちに見つめながら、勲は倉庫のトタン屋根のてっぺんに座している。焦点はぼやけている。
今は十二羽に鳩が増えた。最初に飼った羽白と灰の番(つがい)が子をもうけ、その子がまた子を産み、キミコウから教わった〝釣り〟などで十羽、増えた。
試験が終わった1週間後、入試結果の発表がH高の玄関横の壁に張り出される。
受験番号136番。勲の受験番号だ。
135番と137番はある。間の136番が、ポッカリと虚しく抜け落ちている。
15歳、人生最初の受験に勲は、不合格だった。
「………」ショックだった。
肩を落とし、踵を返す勲の目に、遠く、こちらを見つめている岡浩子の視線があった。
この時代から、マスコミが指摘し始めた【中学浪人】の身に、勲は晒された。
団塊の世代の厳しい最初の【受験戦争】に、負けた。
一日目の国語から入試は始まり、二日間行われた。
「…どうやった?」
十日ほど前から父と上の兄が土間と台所の改装工事を始めている。父が鉋がけの手を休めて、勲に聞く。
「うん、大丈夫や。心配せんといて」
「そうかあ、そら良かったなあ」
父は微笑む。隣で兄も、ホッとした表情を見せてくれている。
公立高校を受験する者の中には、一種の〝滑り止め〟で私立と併願受験する者も多い。勲は、父に金銭的な負担を掛けたくなかったので専願でH高だけを受験した。それにランクを落としたので合格するのに自信があった。
三月初旬、大阪府下一斉に公立高校全日制の入学試験が行われた。
私立高校の入試はその前に各校が日時を設定して行われていた。
村瀬と本岡はO工業高校を受験はしたが形だけで、すでに推薦入学が決まっていた。
有沢もO工業高校を受験し、すでに合格していた。
亡くなった母と違って父は勲の進路に、とやかく口を挟まない。
だから勲は、自分の進路は自分で決めた。ポンタの進言に従って、ランクを落とし、市立H高校を受験することにした。
後に分かることだが、岡浩子もH高を受験する。
T中校庭でのJ5中生徒の殴り込みに始まった、集団乱闘事件。
パトカーが出動する騒ぎとなり、事件の首謀者の一人として勲はH警察署に補導された。前日から体調を崩した母は、奥の間で寝込んでいる。
次の日から午前中の授業を終えると、H署での刑事の取り調べが続く。
病床の母が、気を揉む。聴取は3日で終わった。 勲が補導されてから一週間後、夕餉の煙が下町の軒先に立ち上る頃、最愛の母は静かに息を引き取った。
高校受験。
勲は医者の兄が通っていた府立K高校を受けたかった。それは単なる希望であって、現実は厳しい。
「…そら、あきませんわ。今の君の成績ではK高校を受験しても合格は出来ません。もっとランク落とさんとなあ。それと、高校受験といえば内申書が物を言います。君の場合はですなあ…二年の夏に事件…いや、何でも無い…」
ポンタの表情が翳る。
担任との個人面談の席でポンタは勲にふと、こう漏らした。
H署に補導された、忘れもしない、あの日の苦い想い出。
「ふ~ん、十五歳の俺は卒業の時はこんな事、考えとったんかあ…。
青いなあ~。そうか、生活指導でよう怒られた白バイは、この年でT中辞めたんやったんかあ…」
ビールを一気に煽る。
「しかし、何で俺は卒業する自分と転勤異動する白バイを〝敗北者〟やなんて、思うたんやろかなぁ?」
烏賊の塩辛をつまみながら、煙草に火を点け紫煙を吐き出す。
「フ~ッ、そうかぁ、これは卒業して高校受験の後に記した文やったんや!」
勲の脳裏に受験地獄だった、あの頃の苦い記憶が蘇る。
あの日からすでに四十年もの歳月が流れている。
涙の合唱が、連鎖し始める。
幼稚園からの友達・有沢も、小学時代の悪戯仲間・村瀬も、一年生の時に手下にしたタドンも…。
♪朝~ゆう~なれ~にし まな~びの~恩
ほた~るの~とも~し火 つむ~白~雪
わす~るる~まぞ~なき ゆく~とし~月~
今~こそ~わか~れめ~ いざ~さら~ば~
『MF倶楽部』のメンバーで、やんちゃやり放題だった仲間の本岡も、ゴンボも、タモンも、西崎も、吉田も皆、泣きじゃくっていた。
講堂内に集う卒業生の中で勲が、一番先に堰を切った。
続いて隣の麻植が嗚咽を漏らす。
勲は、歌い続ける。
♪互~いに~むつ~みし 日ご~ろの~恩
わか~るる~後~にも やよ~わす~るな~
身を~たて~名を~あげ やよ~はげ~めよ~
今~こそ~わか~れめ~ いざ~さら~ば~
♪仰~げば~尊~し 我が~師の~恩~
教の~庭~にも はや~いく~とせ~
おも~えば~いと~疾し~この~とし~月~
今~こそ~わか~れめ~
いざ~さら~ば~
涙が止めどなく、溢れ出る。
止まらなかった。
幼い頃から母を慕い、甘え続け、そして突然、失った。
母という存在への望郷の念。マザー・コンプレックス。
もし交際を申し込んで、断られたらどうすればいいのだろうか?
麻植に向かって「別に仲介役を立てて『あの子なあ、あんたのこと好きらしいねん、交際したって?』言うことがアホらしいんじゃ。好きいうんは以心伝心で分かるもんや。お前、そう思えへんか?」
と、吐いた台詞。
その仲介役さえ立てられずに、悶々としている勲。この性格は、未来にも消えない。
勲二十六歳、一人の女と出会った時、以外には…。
「…アホちゃうかぁ…ボケ!…」
勲は何とも言えない疎外感を覚える。
ぷいと横を向いて勲は、教室を出る。
廊下を北に、そぞろ歩く。隣の6組。岡も踊っている。「…フン!」
7組。安田も踊っている。「……」
疎外感が募る。
「1組の幸代も、踊っとるんやろか? …」
教室は、覗かなかった。
階段を下り、校庭に出る。
50人位の男女の輪が、前に後ろに動いている。
ゆっくりとした足取りで勲は、輪に加わる。
フォークダンス『オクラホマ・ミキサー』。
[ツイスト]が駄目で、フォークダンスはいいのか?
「…アホちゃうかぁ…ボケ!…」
勲は何とも言えない疎外感を覚える。
ぷいと横を向いて勲は、教室を出る。
廊下を北に、そぞろ歩く。隣の六組。
岡も踊っている。
「…フン!」七組。
安田も踊っている。
「……」疎外感が募る。
「一組の幸代も、踊っとるんやろか? …」
教室は、覗かなかった。
放課後、各クラスでは、いろんな催し物が校庭や教室で生徒達のアイデアで行われる。勲は、この[ツイスト]が大嫌いだ。
理由は「男がチャラチャラ、ダンス踊るて、どういうこっちゃ!軽薄や!」
親友の麻植は、南野を相手に熱狂している。
実に幸せそうだ。
教壇の上に置かれた蓄音機。
33回転のドーナツ盤から、アメリカンポップスが流れる。
机と椅子を教室の後方に押しやり、空いたスペースで男女生徒らが向かい合い、両手を左右に振り、腰をくねらせ、片足をタバコの火を消すような仕草をして踊っている。
今、大流行しているダンス[ツイスト]だ。
死んだ母が布を染めて勲の子供服などを縫ってくれた。その染料がまだ残っている。
放課後、麻植と南野は勲の家の工場で染めた。
二人の微笑ましい様子を見て、勲はホッとしたものだ。
二人は交際をはじめた。
「南野、お前のブラジャーを黄色に染めたらええねん!」
麻植の提案。
「何言うてんのん!アホ!」
衣装担当の一人の南野がふくれる。
「お前ら喧嘩すな。俺の家に染料あるから、俺のランニングシャツを胸のとこで切ってやなあ、黄色に染めたらええねん」
茶話会は5組の出し物で体育館内は、爆笑の渦が巻く。
生徒も似顔絵にされた教諭本人も教頭も校長も腹を抱えて笑い転げる。
勲の構成内容はこうだ。
50人のクラスメイト全員が参加できるように10本の似顔絵プラカードは二人で持つ。
舞台下手から登場し、中央で止まる。
ここで勲が女装で登場し、通りすぎる。ここで爆笑が起こる。
1組から10組の教諭の生徒間の評判を二人の生徒が交互にナレーションを読む。
作は麻植と勲。残りの生徒は裏方でBGMや衣装担当。
「よっしゃ、入ってええぞ!」
麻植は恐る恐る襖を開ける。
「……ウギャ~!お、お、お前、夏の夜店の時、俺のキン玉握った女やないかあ!」
勲は本岡に頼んで、あの夜の赤い水玉模様のワンピースと太めの赤いエナメルのベルト、そしてパナマ帽を借りていた。
「そやけど藤田、これどないすんねん。サンドイッチマンでもやるんかあ?」
「お~ま~え~は~ア~ホ~かあ~」
横山ホットブラザーズのノコギリ演奏のギャグで、麻植を馬鹿にする。
「ほ、ほな何すんねん?」
「後で分かるこっちゃ…。チョット二階行こかあ」
二階奥の間に勲は入る。
「お前、俺がOK言うまで入って来たらアカンぞ!」
襖を閉めた勲を麻植は訝る。待つこと五分。
「おっ、これは1組の担任のゴリラやんけえ!」麻植が驚嘆する。
辻木幸代の担任、小西教諭。勲は絵が得意だ。
勲は、1組から10組までの担任教諭の似顔絵を描き上げた。
特に幸代と有沢幸男のいる1組と、本岡義雄のいる4組、岡浩子のいる6組、安田美代子のいる7組、村瀬登のいる10組の教諭を意識して丁寧に描いた。
放課後、勲は自宅の倉庫で絵を描き始める。
紙は父が印刷業を営んでいた時代のものがまだ残されている。
それを六〇センチ四方に切り、同じ大きさのベニヤ板にのりで貼り付ける。その裏に一メートル程の垂木を打ち付けてプラカードを制作する。
ベニヤ板と垂木は父が用意してくれた。ノリが乾いてから勲は、太めのマジックインクで絵を描き始める。
「先生、どんな内容でもええんですか?」
「藤田に任せましょ!」
ホームルームは、拍手喝采。F小学校から進学した者は、勲が子役をしていたことは知っている。
勲は麻植を助手にした。
「藤田、一体何すんねん?」
「俺に任しとけ!」
勲はバラエティー・ファッションショーを考えていた。
卒業間近、体育館では三年生全員五〇〇名以上が集って茶話会が開かれた。
茶話会と言っても、お茶を飲んでウダ話をするのではない。小学生時代でいう学芸会に、毛が生えたみたいなものだ。
各クラスが趣向を凝らした出し物を披露する。大体が合唱か、中学生活を総括する団体での朗読だ。
五組はポンタから勲に中身が一任された。
勲は目を逸らす。
頬は紅潮し、動悸が高まる。
切れ長の目の辻木幸代、大きい瞳の岡浩子に心弾ませた衝動とは、全く違う感情だ。
六年後、勲が大学浪人中に安田美代子と肉体関係を結ぶことになろうとは、二人とも思っても見なかった。
「誰や…」
女子生徒が勲に振り向く。安田美代子だ。
はにかんだような笑みを勲に送る。
二年の時『藤田君を真面目にさせる会』メンバーの一人で、そのことを書いた作文が第五ブロックの弁論大会で優勝を受けた、その生徒だ。
麻植も今、校庭で仲間とレンズに収まっている。
その様子を校舎二階の五組の窓から勲は眺めている。勲も何人かの女子生徒とのツーショットに収まった。しかし…。
ふと、七組の廊下の方に目をやると勲と同じように校庭を見つめる女子生徒がいる。
学校にカメラを持参してもいいという、お達しが出る。
卒業間近になると毎年、学校側が出す粋な計らいである。
卒業までの中学生生活最後の日々、生徒達の記念を印す撮影が校内中で行われる。休み時間や放課後にカメラを持ってきた生徒が、先生や気の合った仲間達、そして交際している相手とスナップ写真を撮る。
ひと遊び終え、ズボンの砂を払いながら二人は砂場の縁に座り込む。
「…あのなあ…麻植、俺なあ…南野のこと、何とも思うてないからなあ…」
「……」
麻植は寂しそうに、ほの暖かそうな冬の夕日を眺めていた。
麻植と勲は砂場でよく相撲を取った。
睨み合って立ち合いの瞬間、麻植は右掌を前にかざし「お待ちなせえ!」と、待ったをかける。
この台詞と仕草に勲は、腹を抱えてひっくり返る。立ち合いのやり直し。
今度は勲が「お待ちなせえ!」とやる。
麻植が笑いこけてひっくり返る。
勲は麻植のこのギャグのセンスが大好きだ。
二人は大親友だ。
「おっ!藤田えらい洒落た座布団やんけ!お前、お母ちゃんいてへんのに一体誰に作ってもろてん?」
麻植が傍で羨ましそうに座布団に見入る。
「ボケ!」勲は麻植の頭を張る。
「痛ったいなあ!何すんねん」
「何でもええ!しょうもないこと言うな!」
南野はその様子をチラッと見て、クスッと微笑んだ。
「やばい!」と、勲は思う。
結局、勲は南野からのプレゼントであることをひた隠しにした。
しかし麻植は、南野の勲に接する態度で事の次第を察した。
好意を言葉にしないで行動で示す南野を勲は一瞬、愛おしいと思った。
しかし、頭を振りその思いを打ち消す。
「南野は麻植が思いを寄せてる子や!それに俺は…」
ある朝、勲が登校して教室に入ると勲の席の椅子に青と白の毛糸で編んだ座布団が、チョコンと乗っている。
狐に摘まれたような顔で勲は、教室を見渡す。
視線が合う。南野がこちらを照れくさそうな顔で、見つめている。
勲の胸はドキンと波打つ。
麻植は同じクラスの南野に恋心を抱いていた。
顔が小さく胸は大きい、スラッとしたスタイルの南野は足が速く、体育祭ではクラス対抗女子リレーでアンカーをつとめる陽気な生徒だ。
〝男女交際〟は日を追って盛んになる。
勲はこの〝男女交際〟という言葉自体に、何故か嫌悪感を覚える。
「別に仲介役を立てて『あの子なあ、あんたのこと好きらしいねん、交際したって?』言うこと自体がアホらしいんじゃ。好きいうんは以心伝心で分かるもんや。お前、そう思えへんか?」
「そうかあ?やっぱり言葉でいうたほうが、話は早いのんと違うか」
「ほな何かい、好きでもない相手から申し込まれたら一体どないすんねん?」
「そら藤田、考え過ぎとちゃうか?」
そんな事態が起こった。
誰もクラブには入っていない。
砂場の手前に走り高跳びのポールとバーをセッティングし、それをバックに一応、部長の教諭らと共に復活した陸上部員の集合写真撮影は終わった。
一着しか無い校名入りのランニングシャツは、勲が着た。
この日で陸上部は、また休部した。
「お前ら、陸上部に入らへんか?」
鉄棒のある砂場の木の縁に腰を下ろした悪仲間に、勲は勧誘を始める。
「陸上部て、そんなクラブ無いやんけ」と、吉田。
「アホかぁ、休部してるだけや」
「チューブて、タイヤのチューブの事かぁ?」と、浦添。
「お前、耳、脱腸か!休部や、部は休みちゅうこっちゃ」
「休んでる部に、何で入れるんや?」と、タドン。
「お前、頭、日曜かぁ!つまりやなあ、陸上部を復活させよちゅう事や」
「そやけど、俺足遅いし、右の人差し指、曲がってるしなあ…」と、麻植。
勲も含めて結局、こういう仲間にしか声を掛けられない。
好きな野球を封印された勲は、母に初めて反抗心を抱いた。
入学してからの勲は、優等生とは付き合わず、やんちゃな連中と意識的に交わった。
その結果が本岡と結成した『MF倶楽部』だった。
陸上部は勲が入学した年の秋、休部になる。陸上なんて流行らない。
人気は断然、野球部だ。しかし、勲は母の猛反対で入部できなかった。
「しっかり勉強して、お兄ちゃんみたいに、お医者さんになるんやでえ。そやさいに勉強でけへん子ぉらと友達になったらアカンのやでえ」
「藤田、お前、陸上部でアルバム写真撮れ」
体育教諭、マンボこと永井の提案だ。
「何でですか?」
「中学生活の記念やないか。仲間を集めて陸上部、作れ」
マンボは勲の〝仕返し〟を懸念しているのか?校内一の体罰教諭だ。
しかし、勲にそん気は毛頭無い。
伊達や酔狂で小学5・6年、ライオン先生のしごきに耐え、特別席で勉強した訳じゃあ無い。
「そんな事して、ええんですか?」
「ええやないか、中学生活の記念やないか」
案外、マンボは生徒思いなのかも知れない。
走り高跳びのバーに向かって左45度、20メートル下がってタンバイ。
チョコンとその場で飛び上がり、小股で助走を開始。
バーの5メート手前で歩幅を大きくし、左足を軸にし、体を左回転させ、前屈みの姿勢で跳躍しながら、右手と右足をバーの上に覆い被せるようにバーをクリアする。
1メートル45センチの記録で、3位入賞を果たす。
卒業を前に、卒業アルバムの写真撮影が日々行われる。
各クラブの部員たちの集合写真。一年の時、辻木幸代のポートレートを撮りまくった、写真館の阪本の親父がカメラマンだ。
勲はクラブには所属していないが、一年の時からクラスの体育委員に就いている。体育は得意科目だ。
春の第5ブロックの陸上競技大会では、走り高跳びの選手に選ばれ参加した。この頃の飛び方は、今と違って〝ベリーロール〟だ。
英語担任の青木は、チョークを引き出し箱から手にして「よう出来てるなあ、ブルーのペンキまで塗って仕上げとる。…なあ、藤田?」と、いたずらっぽく問いただす。
勲はピクッと、体を硬直させる。
「はあ、何の話しですぅ?」
「このチョーク入れが、よう出来てるちゅう話しや」
「このオッサン、ひょっとして知っとんのか?」と、心で呟く。
「それに、廊下の下駄箱も、あんじょう修繕したあるしなあ…」
「こいつ、どこで見とったんや!」
青木はニヤリと笑い、チョークを手に黒板に向かう。
結局は下駄箱修理もチョーク箱製作も、誰の仕業かは暴かれずに済んだ。
青木以外には…。
「乾、しゃべりましょ!」
「???」
「何してんねや、はよ、しゃべりましょ!」
「しゃべるて…先生、何しゃべるんですか?」
戸惑う乾。
「決まってます。下駄箱、誰が修繕したんや?しゃべりましょ!」
「そ、そ、そんなこと知りません…」
「うむ…イズタニ、しゃべりましょ!」
泉谷も「そんなこと、知りません…」
「アサウエ、しゃべりましょ!」
又だ、麻植(おえ)をアサウエと呼ぶ。
結局、ポンタの下駄箱修理の犯人?探しは空振りに終る。
「乾、しゃべりましょ!」
担任の狸似のポンタこと森田先生は、クラスで一番小柄の乾を孫のように可愛いがる。それに国語担当のポンタは、教室に入るなり「イズタニ、読みましょ!」と、いきなり朗読させる。
泉谷(いずみたに)をイズタニと呼ぶ。
「このオッサン、ほんまに国語の先生かぁ?」と、勲はいつも思う。
「おい、下駄箱の修理が完了したら…」
「何か奢ってくれるんかあ?」
「あほ!ボランティアに報酬は無い!」
「ほな、何やねん?」
「黒板の下の両端にチョーク入れる箱、作る!」
麻植は唖然とする。
格好が悪い。
好き勝手気儘に過ごしてきた中学生活。
そんな勲が、頼まれもしない下駄箱修理をしていることがばれると、格好がつかない。
勲は小使いさんにだけ事の次第を打ち明け、教諭たちも下校した時を見計らって修理を開始する。
修理のための材料は調った。
しかし、修理を実行するのが問題だ。
勲と麻植の三年五組五〇人分の下駄箱だけを修理するのだが、五組はむろんのこと、他のクラスの生徒にも修理の現場を目撃されてはならない。
何故か?
「こいつ、クラスの修理委員やねん。そやから手伝うたってんねん!」
横にいる麻植が、口を尖らせる。
修理委員でも何でもない。検便を運ぶ、保健委員だ。単に勲に無理矢理、付き合わされているだけだ。
「そうかあ…まあきばりや」と、父は自転車を押して工場を出て行く。
学習帳印刷を辞め、兄が始めたトムソンの仕事。父に出番は無い。
父の背中を眺めながら勲は、喉が痞える。
また今日もF市に嫁いだ姉の孫の顔でも見に行くのだろう。義兄は刑事を辞め、小さな印刷屋を経営している。そこの空気が父の心を癒してくれるのだろう。
「勲、何してるんや?」
いつもの優しさで父が問う。
「うっ、ちょっとなあ、学校の下駄箱修理すんねん」
「修理て、誰ぞが壊したんか?」
「違うねん、自然に壊れたんや」
「ほんで、何で勲が修理せなアカンのや?」
本音を父に話すわけにはいかない。そんなことをすると万が一、父が母の事を思い出すかも知れない。
そんな中学生生活の終わりに勲は学校に、何らかの恩返しをしたかった。それが下駄箱の修理だった。
おっちょこちょいだけれど、真面目な麻植にとっては迷惑千万な話だ。
修理のための板切れは勲の家の倉庫に一杯ある。下駄箱の寸法を巻き尺で測り、工場の父の作業台で父のノコギリで切り揃える。勿論、麻植と放課後、作業に専念する。
去年の夏、享年五十一の母を病気で亡くした勲は、それまで番長気取りで喧嘩や不良行為を繰り返していた。
母の死を契機に普通の中学生に戻った。幼い頃から、こよなく愛していた母を亡くし、十四年間の人生で初めて味わった悲愴感。
「俺が校庭でJ五中の奴らとの乱闘騒ぎの果てにH警察に補導されたあの日。胃の調子が悪く、寝込んでいた母は、一週間後の六月一日、息を引き取った。みんな俺のせいや…」
今も勲は、そう後悔、懺悔する。
放果後。もう三年生のクラブ活動への参加は、三学期を迎えてお終い。校庭や体育館での体育クラブの練習の掛け声も聞こえず、校舎内での文化系クラブの集まりも散会している放課後。
勲と麻植は木造校舎二階廊下の教室側に作られた、下駄箱の修理に精を出している。鳩小屋の巣箱のように仕切られた下駄箱の所々は、仕切り板が剥がれている。それを修復させる。勲の発案。
一部女子生徒の目の色が変わる。
女子生徒が本人、または友人を介して好きな男子生徒に【交際】を申し込む。
この逆のケースは、稀だ。十五~六歳、女の方がませている。それもそうだ。
彼女たちには月経が始まっている。ということは、子供が産まれる体に成長しているということだ。
勲ら仲間たちは自慰を知ってはいるが、女とセックスすることなど想像だに出来ない。可愛いものだ。
勿論、交際を申し込む女子生徒もセックスなんて毛頭考えていない。
初めて体験する思春期の淡い異性への興味が芽生え始める。
三学期になると校内の雰囲気が変わる。
男性教諭たちが優しくなる。
悪ガキの生徒らからの〝仕返し〟。これは逆恨みだ。
特に生徒に体罰下した体育教諭の〝マンボ〟や、厳しい生活指導を担当した教諭の〝白バイ〟らは、気を病む。
二年生がおとなしくなる。
こちらも卒業を控えた三年生からの〝仕返し〟。これは生意気な下級生への見せしめだ。
曲はスケートリンク中に、スピーカーから流れ出る。
曲に合わせながら三人は、スローな滑りでリンク上を回る。
リンクの中央では、フィギアスケート・クラブの女の子たちが、優雅な舞いを見せている。
勲らと同年代の、ひときわ目立つ目のクリクリした女の子がいる。後の人気歌手、いしだあゆみ。彼女に会うために勲らは、リンクに入り浸る。
二ヶ月半後に迫っている高校受験の事など、勲の脳裏には微塵も無い。
勲は週末、村瀬や本岡らとスケートリンクにたむろする。
最初は勲が滑り方を教えるのだが、二人は流石、野球部の中心選手、すぐに滑り方のコツをつかむ。入場料は、ええしの本岡が奢ってくれる。
勲と村瀬はリンクの端に置かれたジュークボックスに小銭を入れる。二人の好きな曲は、今大流行中のブレンダ・リーの『愛の賛歌』だ。
大阪・南にある難波スケート場。
K大学アイスホッケー部の副キャプテンだった上の兄は、今もOBとして部の指導に当たっている。兄の顔で勲はしばしばタダでリンクに入れてもらう。
勲は、フィギアスケート靴を履き、兄に練習をつけてもらう。
小学時代に有沢とローラースケートに興じていた勲は、たちまちアイススケートに嵌る。
リンクが閉まる午後9時、兄の大学のアイスホッケー部の練習が始まる。兄はホワードの位置でキーパー目がけてスラップショットを次々決める。格好いい。憧れる。
昭和三十九年が明け、中学生生活最後の三学期が始まる。
卒業して就職する者、体育クラブ・特に野球部で実力のある者で私立高校に推薦入学が決まっている者は、勉強もせず残り少ない中学生活を謳歌している。
野球部員の本岡と村瀬は共にO工業高校への入学がすでに決まっていた。
トンネルの突き当たりは、空間になっていて天井部分は地面に達している。
(今は大きな何個かの石で塞がれている)その部分は丁度、扶余神宮跡地の中央に位置している。
人々が整列して神宮を参拝する。そこへ笙篳篥の音色がトンネル内から響き渡り、神主たちが奈落からせり上がってくる。
民衆は恭しく神主を礼拝する。こうした神事の儀式演出のために、トンネルが必要だったのだ。
取材から一ヶ月後、特集が放送された。
コメンテーターの一人で朝鮮史に精通した『恨の法廷』の著者は、勲のこの結論を支持した。
こうして勲とI氏はロケハン、ロケ共トンネルに入らず、特集番組の取材を終える。
この謎のトンネルは一体、何のために造られたのか?一切の記録は無い。
戦前の日本は朝鮮半島を実行支配していた。先にも述べたが日本は朝鮮民族の〝皇民化〟を企てた。
扶余に神宮を造営し、人々に参詣させ、現人神の天皇を崇拝させ、人心とも〝日本人〟にさせようとした。
カメラマン、照明・音声さんが後ろ向きに謎のトンネルに入る。
李夕湖先生とガンさんは横並びに歩を進める。勲は入り口の外からプロデューサーI氏とトンネルを覗き込む。
一行はトンネルの突き当たりの空間に辿り着く。
「カット!OKで~す」
勲の声がトンネル内に、谺する。
「何なの?イサさんは入らないの?」
「トンネルは狭いから、カメラと照明、音声が先に入って、向こう側から先生とガンさんが謎のトンネルに第一歩を踏み入れるシーンから、撮りますわ」
「…コウモリとか、気味悪い虫なんて居ないだろうねぇ…」
巨体のガンさんもまた、閉所恐怖症なのだ。
「何言うてはるんですか。解説委員がこの謎のトンネルの秘密を探る、重要なシーンでっせ!」
ロケ二日目の夕暮れ、取材班は扶余神宮跡の〝謎のトンネル〟前に立つ。
市の観光課の人が錆びた鉄柵に架かる南京錠を開ける。
「さあ、ガンさん、取材のクライマックスやでぇ」
勲がニュース解説委員氏に告げる。音声さんが李夕湖先生とガンさんに、ワイアレスマイクを装填する。
ロケ二日目の夕暮れ、取材班は扶余神宮跡の〝謎のトンネル〟前に立つ。
市の観光課の人が錆びた鉄柵に架かる南京錠を開ける。
「さあ、ガンさん、取材のクライマックスやでぇ」
勲がニュース解説委員氏に告げる。音声さんが李夕湖先生とガンさんに、ワイアレスマイクを装填する。
七月に入り、勲は『イサオプロダクツ』が制作を請け負う形で再び、扶余に入った。
十八年ぶりのディレクターの仕事である。番組全体の構成と〝二足のわらじ〟だ。四泊五日のロケ。リポーターは、番組出演している局のニュース解説委員氏。
最初の二日間は扶余神宮跡の扶蘇山辺りの名所・旧跡を件の李夕湖先生にご同行願う。僅か百メートルの扶蘇山だが、勾配がキツイ。
山や麓を行きつ戻りつのロケ。李夕湖先生は痩身に韓服(パジ・チョゴリ)をまとい、インタビューにも応じてくださる。が、ご高齢でお疲れ気味。巨体の解説委員氏は綿パンにカメラマン・ベストを羽織り、いかにもという風体。
こちらも、息が上がっている。
結局、ロケハン最大の目的〝謎のトンネル〟に、勲、I氏とも入らなかった。
扶余からソウルへの帰途、姜さん運転の車内でI氏は勲がディレクターを担当することを条件に、特集企画にゴーサインを出す。
トンネルには入らなかったが、即決である。
「まあ、ロケハンなんだし、ロケが正式に決まってから取材班が撮影に入れば、いいじゃない?」
物事を的確に判断し、即行動を起こすI氏らしからぬ発言だ。
要するにI氏も勲も〝閉所恐怖症〟なのだ。
トンネルの天井からは水が滴り、カビの臭いがする。
こうなると両人とも想像をたくましくし、「天井にはコウモリがぶら下がっている」「地面には視力が退化した虫の類がいる」と、自分勝手な想像の世界を展開する。
鉄柵越しに覗くとトンネルは、高さが大人の背丈ほど、横幅もその程度の造りだ。奥行きは五十メートルほどか。
突き当たりには薄日が差し込み、畳二十畳ほどの空間が見える。
「入りましょうか?」
本山がその気になっている。
「I、どうする?」
「イサさん、入ればいいじゃない…」
「…一緒に入ろうや」
「…ボクはいいよ!」
「………」
本山が二人に怪訝な視線を遣る。
李夕湖先生はというと知らんぷり。
日本の朝鮮半島侵略の歴史に憤懣やるかたない想いなのだろう。
戦前、この三忠祠に日本は「扶余神宮」を造営しようとした。
すでに小中学校では日本語教育がなされ、朝礼時には生徒全員が遙か彼方、皇居の方向に向かって拝礼させられる。
朝鮮人の氏名は「創氏改名」策によって日本式に変えさせられた。
さらに「扶余神宮」を参拝させる事によって日本は、朝鮮人の「皇民化」を強いる策謀を企てたのである。
三忠祠の南の門をくぐり、小さな広場を西に行くと道は少し下る。
その刹那「あ、あっ、あれです、あれです!藤田さん、Iさん、あれが私の言っていたトンネルです!」
本山が興奮気味に叫ぶ。
小径の右手、錆びた鉄柵で覆われたその先に、確かに薄暗い空洞が視界に入ってくる。
遠くに飛鳥三山ならぬ扶余三山が望む。
飛鳥時代、日本に仏教が伝来する。その伝来の地が、ここ百済の都・扶余である。
百済からは仏教と共に、中国・朝鮮半島の文化や芸術、土木・建築など当時の最先端技術が飛鳥朝廷にもたらされた。飛鳥百年の繁栄は百済抜きでは語れない。
李夕湖先生の口調には百済時代の誇りが蘇る。
百花亭から南の麓へ降りていくと「三忠祠」に辿り着く。
この祠堂は、百済が唐・新羅連合軍に完膚無きまでに叩かれ滅亡した時、国の為に忠誠を誓った成忠・興首・階伯の三人の将軍の忠節を追慕するために建てられた。
毎年十月、百済文化祭の時に三忠祭を奉っている。
伝説では300人近い女性が投身したとされる。
後日、その宮女たちのチョゴリが風で花びらの蕾のように広がりながら落ちていくようだと比喩されたことから〝落下岩〟と呼ばれるようになったという。
憤りを押え切れない流暢な日本語で李夕湖先生が述懐する。
祠の正面の屋根には扶余出身の高名な政治家・金鐘泌自筆の〝百花亭〟の額が掲げられてある。
西の眼下には落下岩の岩肌が垣間見える。
華が落ちるように…百済が唐・新羅連合軍に敗れた日…義慈王二〇年、西暦六六〇年、百済の宮女たちが敵軍に捕まって恥ずかしく生きるより、忠節を守るために白馬江に自ら身を投げた場所と、三国遺事に記されている。
李夕湖(イ・ソクホ)先生の先導で扶蘇山を登り始める。
百済の王宮の裏手にある高さ100メートルほどの山で、山城になっている。かなり勾配がきつい。
中腹まで歩を進めると左手にところどころ土塁や石垣が目に入る。山城の跡だ。
右手には半月楼の佇まい。勾配がさらにきつくなる。約二〇分、頂上の百花亭に辿り着く。
オヤジ宴会―。
「…参ったなぁ…おんし、マッコリって旨いじゃんか!」と、谷垣。
「アホちゃうか、最初から旨い言うてるやろ」と、勲。
「バッチリや!本山さん、そやけどホンマにええマッコリは悪酔いしませんか?」と、遠山。
「あ、あ、そうですかなぁ…私には…分からん!」
同じ会話の繰り返し。
「そやけど本山さん、扶余のロケハンは面白かったですなぁ」
「しかし、私の一枚のファックスでよく特番の企画が通りましたなぁ」
他人事のように本山は言ってのける。
「それでさあ、おんしはその日本軍が掘ったというトンネルには入ったの?」
谷垣は、何か疑っている。
「三井ユースホステル」の名からも分かるように扶余を日本が統治していた時代、軍と三井財閥が手を組んでいたのだろう。
ユースホステルのロビーには、日本の高校生の修学旅行の集合記念写真がいくつか壁に掲げられている。
日韓交流―日本の方が胸襟を開いている―。
勲ら四人は白馬江の観光船の船着き場近くの「三井ユースホステル」に宿を取った。
経費節減もあるが、扶余には観光客目当てのホテルが無い。
本山が言ったように韓国人にとって扶余は、観光地でも何でもはないのだ。
それもこれも日本軍が「扶余神宮」の造営を企てた過去の歴史に、韓国人が強い拒否反応を示している証拠でもある。
韓国人のドライバー兼通訳の姜さん―
「私、少し恥ずかしいね…」
勲―「何でですか?」
「実は、私、今の今まで扶余のこと何も知らなかったよ」
本山―「あぁ、あぁ、藤田さん、そうなんですよ。この扶余という古都のことには韓国人、特にソウルのような都会人はあまり興味がないようですなあ」
I氏―「それは困った問題ですねぇ。本山さん、韓国では日本が朝鮮半島を侵略した近代史は盛んに教えるのに、古代史は教えないんですか?」
「…ま、そういうことでしょうなぁ」
「そしたら本山さん、今回のロケハンの目的の扶余神宮跡の日本軍が掘ったトンネルの謎、李夕湖先生に聞いたら、怒られますか?」
「いや、大丈夫です。私にあのトンネルの存在を教えてくれたのは、李夕湖先生ですから」
勲はホッとした。
司馬遼太郎氏が記した人物評そのままの李夕湖先生が、口角泡を飛ばすように百済擁護説をブチ上げる。
勲は「可愛い人やなぁ…」と李夕湖先生の講義に魅入る。
日本家屋のような造りの中庭のある八畳間で四人は、小一時間の講義を聴き終えた。 本格的ロケハンは明日からだ。
「いまからゆく百済の古都扶余には扶余の代表的郷土史家として李夕湖(イ・ソクホ)先生という白皙(ハクセキ)の偉丈夫がいた。
その李夕湖先生が百済の美を激賞し、ついに激情のほとばしるあまり、新羅を悪国として罵倒し、『新羅なんぞは唐の力を借りて百済をほろぼしたんだ。それだけのことだ。新羅文化のどこに独創性がある。みな百済がお手本じゃないか』」―中略―
「地上の夕闇のなかに強い近眼鏡をかけた壮齢の人物が立って、降りてくる私を見あげながら、『この宿が百済の王宮あとですよ』と、どなった。
それが、わが百済悲歌の士である李夕湖先生との初対面であった」
姜さんの運転で勲、I氏、本山を乗せた車は、国立扶余文化財研究所近くの小さな空き地に着く。
「あぁ、あぁ、藤田さん、Iさん、まずは百済大好き人間の方に会っていただきます」
と本山が、少年のようにニヤリと微笑む。
司馬遼太郎著『韓(から)のくに紀行~街道をゆく~』その2・百済の旅の項に、こう記されている。
壮絶な戦いは、百済救援軍が大敗を喫した。
この大敗のショックで、中大兄皇子は飛鳥から近江に遷都したと伝えられる。
百年の繁栄を謳歌した扶余の都は、唐・新羅連合軍に徹底的に破壊され、現在は往時を偲ぶものはほとんど残されていない。
飛鳥と扶余は友好的な外交関係を築き上げた。
時の朝鮮半島は高句麗・百済・新羅の三国時代。中国大陸から朝鮮半島に勢力を拡大していた新羅は、唐・新羅連合軍を組み、百済に侵攻する。
六六三年、飛鳥朝廷は「百済救援軍」を扶余へ派遣。救援軍と唐・新羅連合軍の海戦―〝白村江の戦い〟が、白馬江を舞台に展開された。
白馬江(ベンマガン)に架かる百済大橋を渡り、車は扶余市街地に入る。
扶余と日本の因縁は深い。
日本が飛鳥時代を迎えた頃、百済最後の都がこの地に遷都された。
「飛鳥百年」といわれるように、扶余は西暦五三八年から百済滅亡の六六〇年まで百済文化の華を咲かせた都である。
日本への仏教伝来の地も、ここ扶余である。
6月中旬―。
土曜日の朝八時からの本番を終え、二人の司会・進行役のタレントと四人のコメンテーター陣を見送った後、勲とI氏は二泊三日の韓国・扶余へのロケハンに向かった。
金浦国際空港には本山と通訳兼ドライバーの姜さんという女性が出迎える。本山と懇意の姜さんは小劇団の女優で日本語が話せることから、日本人観光客のガイドや通訳のアルバイトをしている。
今回のロケハンは勲・I氏とも自腹を切っている事を知る本山は、姜さんの車を使うことにした。この心遣いが勲をして本山を尊敬する所以だ。
車社会の韓国は主要幹線道路が片側4車線と、日本とは比べものにならないほど整備されている。ソウルから扶余までは約250キロ。姜さんの車は空港から高速道路に入り、百済最後の都・扶余を目指す。
「面白いじゃないの。僕とイサさんの二人で、とりあえずロケハンに行こうよ」
即決だ。
彼を勲が尊敬する所以は、この頭の切れだ。
さらに彼の良いところは、事の割り切り方だ。
「旅費・宿泊はお互い自腹だよ。メシと飲み代位は僕が奢るよ。
ロケハン次第で特集を制作するかどうかを決めましょうよ。
もちろん、本山さんへの謝礼とロケハンの車代なんかは社で持ちますよ」
番組のチーフプロデューサー、I氏。
彼は営業・編成局で豪腕として知られていた。初めての番組チーフプロデューサーに就任。物事の判断が素早く、尚かつ制作費の全てを握ってい、能力ある実力者だ。
勲より四つ年下。人の好き嫌いの激しい勲はI氏とは、公私ともに胸襟を開く仲だった。
局二階のパーラーで雑談している時に勲は、本山の企画をI氏に持ちかけた。
しかし、勲は本山をマスコミ界の大先輩として尊敬している。
実際、それまでにも勲が構成をしていた情報バラエティー番組でソウルを何回か取材したことがある。その度ごとに勲は本山にコーディネイトを依頼した。
しかし、扶余という都市の存在など、今の今まで知らなかった。
勲に興味の色が滲んだ。
『 藤田勲 様
藤田さんが構成している報道番組の企画です。
この間、韓国のソウルの南・忠清南道にある扶余(日本語読み・プヨ)という古都にっ
て参りました。
そこに『扶余神宮』跡が在ります。
日本が戦前に朝鮮半島を統治していた頃、扶余に日本式の神宮を建立しようとしまし
た。いわゆる朝鮮民族の〝皇民化政策〝の一端です。
その扶余神宮跡に一本のトンネルがあるのです。
藤田さんの番組の特集企画として、この謎のトンネルに是非、日本のカメラを入れて
みたいのです。
KBS日本語放送・校閲委員 本山正継』
これだけの情報で全国ネットのテレビ番組の企画など、通る訳が無い。
日本で言うドブロク、マッコリが勲はおおいに気に入っている。
十五年前から勲は、あるテレビ局の大阪発の全国ネット報道番組の構成を担当していた。
土曜日の朝八時台は各局とも一時間半の全国ネット番組を制作している。勲が担当している局以外は全てバラエティー番組だ。
その報道番組の特集企画を本山正継が勲に持ちかけた。
本山は韓国の国営放送KBSのラジオ番組の日本語放送・校閲委員を務めていた。
『イサオ・プロダクツ』にソウルの本山から一枚のファックスが送信されてきた。
「…参ったなぁ…」
何が参ったのか、谷垣勝は酔うと「参ったなぁ」を連発する。
「おんし、これは強えんじゃない?」
谷垣は勲を〝おんし〝と呼ぶ。
「アホちゃうか、大丈夫や!」
勲の〝アホ発言〝は、小学生時代から続いている。
「ええマッコリは悪酔いせえへん…ねえ、本山さん?」
勲は韓国通の本山に話しを振る。
「あ、あ、そうですかなぁ…私には…分からん!」
本山正継は何かを判断しかねる時〝分からん!〝の一言で逃げる。
「…バッチリや!こら、旨い!」
プラスチックコップのマッコリを一口飲み、遠山隆志の口癖〝バッチリや!〝が飛び出す。
要するに四人のオヤジは、酔っぱらっているに過ぎない。
ケネディ暗殺から二十二日後の十二月十五日、日本のスーパーヒーロー・力道山が死亡した。
十二月八日午後十一時頃、赤坂のナイトクラブで国民的英雄のプロレスラー・力道山がヤクザに登山ナイフで脇腹を刺され病院に搬送された。
緊急手術は無事成功し命に別条は無いとされたが七日後、息を引き取った。享年、三十九。英雄・力道山の死は国民に驚きと深い悲しみを与えた。
外人レスラーを空手チョップでバッタバッタと薙ぎ倒し、圧倒的な強さを誇った力道山が、錆びた登山ナイフの一突きで死ぬなんて誰も信じることができなかった。
最後の言葉は「俺は死にたくない」だったと言う。
勲の十五歳の暮れは、偉大な二人の死でピリオドを打ち、昭和三十九年が明けた。
一方、ケネディの国内政策は鉄鋼業界によるカルテルとの対決、人種差別問題への介入、そしてケネディ家と因縁の深いマフィアとの対決。キューバ危機後の軍縮への努力であった。
これまでにない革新的なケネディの政治姿勢に反撥する諸々の集団の思惑が手を結び『ケネディ暗殺』が実行された、との見解には充分な説得力がある。
兄の収集した記事を精読するにつれ勲は、ジョン・F・ケネディのファンになる。
「日本にもこんな格好ええ総理大臣、居てくれたらなぁ…」と、思ったものだ。
因みに時の総理大臣はガラガラ声で「私は嘘は申しません」と、所得倍増計画を提唱した池田勇人だ。
『祖国があなたに何をしてくれるかを尋ねてはなりません。あなたが祖国のために何を出来るか考えて欲しい』
さらに、人類の共通の敵―暴政・貧困・疾病および、戦争と戦うために共に参加してくれるように世界の国家に依頼した。
この演説は、『近年で最も偉大な大統領就任演説』として、多くのアメリカ国民の記憶に留められることになる。
転校した小学校に通いながら、宮本先生の演技の特訓が日夜続く。
食事の手伝いや掃除洗濯。兄はそれを手伝う。
親元を離れての生活。
僅か一年足らずの居候生活で兄は、宮本先生から子役としての礼儀作法、言葉遣いなどを躾けられたのだろう。
優しさに加えて兄は几帳面な性格の少年に成長していたのだ。
K附属高校ラグビー部キャプテンの兄は、ケネディ大統領暗殺の翌日から、几帳面に新聞記事の収集に没頭した。
この癖は一九六九年七月二〇日、アポロ十一号が人類初の月面着陸に成功した報道まで続く。
およそ一年―。兄は自宅に戻ってきた。
何がどうなったのか勲には、知る術は無かった。
兄の性格が変わった。それまでも勲に対して優しかった兄は、さらに優しくなっていた。
二階の六畳の和室で勲は兄と寝起きする。夜、それぞれの寝床を敷く際、兄は布団の位置を几帳面なほど毎回同じ場所にキチッと敷く。勲にもそうさせた。
「兄ちゃん、こんなんやったかなぁ?」
勲は何が兄をこうさせたのか不思議でならなかった。
宮本先生は一人暮らしだった。
そこへ兄は一人で居候したのだ。
蝶々の『母物語』は、何回もの紆余曲折を経て和夫が産みの親のもとに戻り、ハッピーエンドで幕を下ろす。
『母物語』の和夫の演技は観客、新聞の芸能欄で絶賛される。
所属する児童劇団『こびと座』の座長・宮本先生は母に、兄を自分に託して欲しいと申し出る。京都の自宅に住まわせ東映や松竹、大映などの映画界にデビューさせたいと懇願する。
母にとっては夢のような話しであった。
兄の京都生活が始まる。
「……そやけど、ひょっとして…ひょっとして…おばちゃんとおっちゃんが、ボクのほんまのお母ちゃんとお父ちゃんやったら……ボク、ボク、一体どうしたらええのん?なあ、教えて、ボクどうしたらええのん……お母ちゃん!お父ちゃん!……お母ちゃんと、お父ちゃんの……アホ!」
和夫は大声で泣きじゃくる。
客席から嗚咽が漏れる。
照明がゆっくりと暗転になる。
真っ暗な舞台。一本のピンスポットが応接間の中央に、パジャマ姿で立つ和夫を照らす。
「…おばちゃん…おっちゃん…何で今頃になってから、ほんまの親や言うて名乗りを上げてボクを迎えに来たんや!ずるいわ、ずるいわ…。ボクはおばちゃんもおっちゃんの顔も知らんのや!ボクがここの家の門に捨てられたんも、さっき知ったばっかりや。そやけど、そんなこと嘘や!全部嘘に決まってる!そやかて、おばちゃんとおっちゃんが、ボクのほんまのお母ちゃんとお父ちゃんやなんて、どうしたら判るんや!おばちゃんとおっちゃんなんか、大嫌いや!この家のお母さんとお父さんが、ボクのほんまの両親なんや……」
語尾が弱まる。
和夫は二階客席の方に目を遣り、号泣する。上手階段の下では、夫婦が肩を寄せ合うようにして涙を流す。
満員の客席のあちらこちらですすり泣きがする。
せめて、せめて一目だけでも和夫の顔が見たいと懇願する女。
もう引き返そうと、泣いて揺する女の肩を掴む男。
その刹那、階段の陰で事の一部始終を聞いていた和夫が、土下座する女と男の前に走り寄る。
話しは嘘だ。僕の両親は、この人たちだ。今すぐ、帰れ。こう叫び和夫は階段を駆け上る。
和夫を返して欲しい…。
貧乏だが人並みの生活が出来るようになった女と男は土下座し、ペルシャ絨毯に百遍、頭を下げた。
和夫の父は激怒し、女と男の為した非道と今日の来訪の真意を糾弾する。一代で築き上げた事業を一人息子の和夫に継がせることはすでに夫婦間での了承事項だと、切り捨てる。床に突っ伏したままの女と男は、結末がこうなることは百も承知していた。
十二年間、我が子を捨てた後悔の念を抱き続けて生きてきた女と男。
十二年間、天からの授かり者として手塩に掛けて子を育ててきた両親。
両者の間の歳月の溝は、余りにも深く遠い。
女中に案内された女と男は腰を屈め、重い足取りで歩み、視線を豪華なペルシャ絨毯の上に落とし、全身を固め、佇む。
十二年という歳月の流れの大きな隔たりが、女と男、夫婦の間には横たわっていた。
夫が威厳のある声音で女と男の来意を詰問する。男は只々オロオロするばかり、女は蚊の鳴くような涙声でポツリポツリ、語り始める……。
妻が直感した通りの筋書は、想像だにし得ない結論へと誘導されて行く。
大きな応接間で和夫の帰りを優しく迎える両親。
ソファーのテーブルの上にはバナナやオレンジ、メロンが盛られた洋皿が用意されている。
母が勧めるが、和夫は先に宿題を済ませると微笑みながら二階の自分の部屋に上がって行く。その後ろ姿を見遣ってから夫婦は見つめ合い、何かの縁で授かった和夫の存在に心から感謝した。
女中が見知らぬ二人の来客の訪問を夫婦に告げる。
怪訝な夫の表情を伺う妻は、こんな日が来るはずはないと信じつつも、女の第六感で何かを悟る。
目で妻は女中に来客を上げてやることを承諾する。隣に座る夫の表情は強張る。
時は干支が一回りした。和夫を捨てた両親の決断は幸いだった。
大金持ちの夫婦に子は出来なかった。
一人息子の和夫は小学六年生にすくすくと育っていた。
衣食住に何の不自由も無く、和夫は素直で明朗活発な男の子として両親に溺愛されていた。
ある日の午後、和夫は学校を終え帰宅する。門扉を入って行く和夫の後ろ姿を、電柱の陰から見入る女と男の目に、少年の背中は眩しかった。和夫を捨てた母と父。
食糧もまともな仕事も無い夫婦は、身を裂かれる思いで捨て子を決断する。
ボロ布に包まれた我が子をそっと、門扉の中へ置く。痩せ細った赤子の顎の辺りには、一通の手紙が差し込まれている。
無責任な親の非道を詫び、身勝手な子の将来の養育を懇願した手紙。末筆に小さく赤子の名もしたためた。[和夫]。
夫婦の目からは涙がほとばしるほど、流れ出ている。一生、我が子の前には姿を見せないことを強く心に誓う。
言いようのない切ない思いを胸に夫婦は、来た道を街中に消えて行く。
時代は太平洋戦争で日本が敗戦した直後。舞台は戦後の混乱真っ只中、大阪市の下町の闇市。
赤子を抱える母親と国防服姿でトボトボ歩く父親。
母役・ミヤコ蝶々、父役・南都雄二。赤貧の生活を余儀なくされ、未来の希望など、空襲で焼き払われた家同様失ってしまった夫婦。今日明日の生活もままならぬ。闇市に広がる焼け野原に、今日も時だけは規則正しく刻まれて行く。
砂埃に霞む夕日を背に夫婦は、何かに憑かれたような無機質な足取りで歩を進め、街外れの大きな屋敷の門扉の前に辿り着く。
『ケネディ暗殺』の次の日から、下の兄は新聞記事の収集に躍起になった。
K附属高校ラグビー部キャプテンで勲には常に優しく接してくれる兄。小学生の時一緒に劇団に通った兄。兄の方が子役としては有名だった。
勲の初舞台、東京の新橋演舞場といえば聞こえは良いが、大した台詞も無い端役。
一方の兄はといえば、大阪・千日前の歌舞伎座で主役を張っていた。
当時の大阪では夫婦漫才のミヤコ蝶々・南都雄二が漫才や芝居の世界でスターダムにのし上がっていた。
歌舞伎座での演しものは、ラジオ番組でも人気を博していた『漫才学校』時代劇の『お笑い清水港』どちらも関西の松竹系のお笑い人が総出の超豪華な舞台だ。
そして人情芝居―蝶々の『母物語』兄はこの芝居の主役だった。
『ケネディ暗殺』の真相は、現在なお闇に包まれたままである。
一般的にオズワルド犯人説を否定する見解が多い。
当時ケネディ大統領は、長引くベトナム戦争からの撤退を示唆していた。
それに反撥する[戦争関連企業 ]勢力が暗殺を企てたのではないかという説が有力だ。 ケネディ暗殺後、副大統領から昇格したジョンソン、その後のニクソンは、いずれもベトナム戦争の戦線を拡大させ、アメリカは泥沼に陥る。
ケネディ夫人のジャクリーンは後年、世界でも有数の富豪で海運王のオナシスと再婚する。世紀のトッニュースとしてマスコミに取り上げられた。
このオナシス家もその後、呪われたかのように一家が次々と死亡したことで知られている。
ケネディ大統領のパレードを沿道から、市民の一人が8ミリカメラで撮影していた衝撃映像が後日、世界中を駆け巡った。
数発の銃弾が大統領を標的に襲う。
一瞬、前屈みになった大統領の頭部を前方からの一発の銃弾が、射抜く。
瞬間、大統領の脳の一部がふっ飛び、オープンカーの後部ボンネットに落ちる。
ケネディ夫人のジャクリーンは「OH・NO!」と悲鳴をあげ、夫ジョン・F・ケネディの脳を手で拾う。
この後もオズワルドやルビーの周辺で幾人もの人々が、奇怪な謎の死を遂げている。 ケネディ大統領暗殺の前年。
ケネディと親交のあったマリリン・モンローが謎の死を遂げている。
この事件も『ケネディ暗殺』に何かの関わりがあるのではないかと言われている。
世紀の一大ニュースの続報は延々続く―。
事件のわずか八十分後に、元海兵隊員のリー・オズワルドという男が犯人として逮捕される。
そのオズワルドは二日後、護送中にクラブ経営者のジャック・ルビーという男に射殺される。
そして、そのルビーもその後まもなく死亡。死因は癌とされたが、真相は闇の中に葬られた。
昭和三十八年十一月二十二日、午後十二時三十分(日本時間、二十三日午前五時三十分)アメリカ大統領ジョン・F・ケネディがテキサス州ダラスでパレード中、何者かによって射殺された。
寝ぼけまなこを擦りながら勲は、父と二人の兄と一緒にテレビのブラウン管を凝視していた。午前五時三十分、飛込んできた映像は、同時通訳の日本語が伝えるケネディ大統領暗殺のニュース画面だった。
「……な、な、何でこの日の、この時間なんや?」
勲は我を忘れて、呟いていた。
日本は、通信アンテナを独自の技術力で開発、建設してアメリカに認めてもらうしかなかった。その命運を託されたのがKDDの電波技術者たちだった。
しかし、衛星中継の知識も技術もない彼らプロジェクトは、次々と壁にぶち当たった。 手探りの開発を続けて三年―昭和三十八年十一月、日本独自の技術で通信基地を遂に完成させ、アメリカに通信衛星計画への参加を認めさせた。
そして運命の日―。
十一月二十三日、世界初の太平洋横断衛星中継実験が行われた。
その朝の記念すべき最初のアメリカから日本に送られてくる予定の映像は、ケネディ大統領のメッセージだった。
しかし、送られてきたリアルタイムの映像は、衝撃的なニュース『ケネディ暗殺』だった。
三年前の昭和三十五年、四年後のオリンピック開催地が東京に決定していた。
政・財・官は言うに及ばず、国民の総意は「東京オリンピックを成功させ、著しい戦後復興を成し遂げた日本の姿を世界に見せたい!」という思いだった。
世界初のテレビのオリンピック生中継の実現が国挙げての目標となった。
しかし、当時の日本にはテレビの大陸間の中継技術はなかった。
翌、昭和三十六年、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディは電波を送受信できる「通信衛星」の打ち上げを発表する。
この計画は、ヨーロッパとアメリカを電話や映像で結ぶという画期的なものだった。しかし日本は、技術力が低いとアメリカの構想からは外されていた。
戎橋を渡り、心斎橋筋を北にそぞろ歩く。
「おもろかったのぉ!」
「藤田は口達者やからなぁ!」
中身の入っていない紙袋をVANの字が見えるように手に持った、吉田と村瀬は満面に笑みを浮かべて歩く。
制服制帽の中学生に似付かないVANの紙袋を持った三人。若い通行人たちは、紙袋に目を遣る。それほど、VANブランドは当時の若者のファションに一大革命を起こした。
テレビの世界にも、一大革命が起ころうとしていた。
この年の十一月二十三日、世界初の日米間のテレビ宇宙中継実験が行われた。
「つりは、チップや言うとるやろ」
「そ、そんなもん、貰えるかい!」
「おっさん、小銭を馬鹿にしたら、そのうち小銭で苦労するどお!」
「要らん言うたら、要らんわい!」
「そうかぁ…ほんだらこの袋二つ二百円で買うたるわ…」
「これは、売りもんや無い!」
「堅いこと言うな、この袋持ってこれから心斎橋筋歩いて、おっさんとこの『とらや』の宣伝したるわ、ほなサイナラ!」
ズック靴の先から頭の方に目をパンアップさせる。
「うちの店は、冷やかし禁止やでぇ!買う気が無いんなら、早よ店出て行ってや…」
親父の横柄な態度に混み合っている店内の高校や大学生らしき客も、小馬鹿にした視線を勲ら三人に寄越す。
ミナミに一軒しかないVAN専門店は、中学生のガキなど客扱いしない。
「二千円や!釣りの二〇〇円、おっさんのチップや、取っとけ!」
勲は棚から半袖・Mサイズのボタンダウンシャツの包みを取り、二枚の千円札を親父の胸元に突き付けた。
豆鉄砲を喰らったような目をした親父は、包みをそそくさとVANの紙袋入れ、釣りの百円玉二枚を勲に手渡そうとする。
勲が初めてVANの半袖ボタンダウンシャツを手に入れたのは、三年の春先だった。
父に強請って小遣いを貰い、村瀬と吉田を引き連れてミナミに出た。
当時、VANの専門店は戎橋商店街の『とらや』一店だけだった。
店構えは、いかにもオールドアメリカン風で店内の色調は、クラシック・ブラウン。
主人はバイタリスで髪を七三にビシッと分け、ベージュのコットンパンツに靴はチャコールのスリッポン。真っ白の綿の長袖ボタンダウンシャツに細目の白紺のレジメンタル・ネクタイで決めている。
薄汚れた学生服と制帽を被った三人の中学三年生を見る目は、冷淡だった。
VANの魅力は単にファッションスタイルだけでなく、アメリカの若者文化、ライフスタイル、精神そのものを日本に紹介し広めた点である。
勲は二年の時、カッターシャツの襟先をノミで裂き、ボタンホールを糸でかがり、ボタンを縫い付け、手作りのボタンダウンシャツを校内で流行らせたものだ。
しかし、VANのそれとは比較にならない格好の悪いシロモノだった。
この頃、勲はファッションに興味を覚える。
1951年、大阪で服飾デザインの会社が設立された。
有限会社『ヴァンジャケット』社長兼デザイナーの石津謙介は[アイビールック]を提唱した。
【IVY】というのは、アメリカ東部のブラウン、コロンビア、コーネル、ダートマス、ハーバード、ペンシルベニア、プリンストン、エール8大学の〝アイビーリーグ〟から由来する“学生らしい”ファッションのこと。
襟先をボタンで止めたボタンダウンシャツに金ボタンのブレザー。大阪発信のこのアイビールックは瞬く間に全国の若者たちに広がり、一時代を築き上げた。
みゆき族がこぞってVANの紙袋を手にして、みゆき通りを闊歩した。
予習も復習もしない習いっ放し。一、二年生の時は適当に頭の回転が良ければ、百番以内の成績はあげられた。しかし、三年生になると学校の授業内容以外に、一段上の受験向けの知識が必要とされる。
三年になってからも勲は、遊びに重きを置いてきた。そして、あっという間のあと半年後に高校受験が迫っている。
「まあ、公立の普通科に入学して三年間猛勉強したら、何とかなるやろ」
単なる自分自身への慰めだ。
「それより、中学生活最後の貴重な時間を楽しまな…」
身勝手な論理である。
二学期。進学クラスの生徒達は来春の高校受験に向けて邁進する。
そして、志望校の選択が始まる。
勲は医者の兄が通った府立のK高校を目指していた。
K高校を受験するには五百数十人中、校内テストで五〇番以内に入っていないと担任は首を縦に振らない。職員室での教師面談。
「藤田、お前の今の成績では到底、K高校は無理ですなあ」
こともなげにポンタが言ってのける。
たぶん勲の父と同年代のポンタは、我が息子を諭すかのような口調で現状分析する。
K高校以下のランクの普通科高校では、国公立や有名私立の医学部に入学するのは不可能である。
しかし勲は、この面談結果が妥当な線であることを承知していた。
「…何で兄ぃちゃんは僕の気持ち分かってくれへんねん…」
こんな些細な事に勲の僻み根性が頭をもたげる。
小学三年の新橋演舞場近くの砂場での一件以来芽生えた、勲の僻み根性。勲自身、何故今も心の片隅にそうした塊が根を張っているのか、理解出来ない。
「もう、ええわ!」
コッフェルを投げ出し、足早に駆け出し、ランニングシャツを脱ぎ捨て、台所岩から滝滑りし、滝壺に落ちる。
身が縮むほど、清水は冷たかった。体を夜空に向け、バタ足で水面に身を浮かべる。満天の夜空に、ひときわポラリスが光輝く。
金メッキの母の写真を入れたロケットは、兄が「不良のするもんや!」の一言で、大切に机の引き出しに仕舞ってある。
「……お、母ぁ、ちゃん!……」
涙でポラリスが、歪む。
母の死からすでに一年以上の時が過ぎ去っている。
しかし勲には時が、あの日から止まったままだった。
一泊二日の気まずいキャンプは、終わった。
うどんが煮えるや即、箸を伸ばす。
「アホ、まだや!」勲。
「何でやねん?もう煮えてるやないか」本岡。
「ちょっと待ったれや、藤田がまだ早い言うとるんやさかいに…」麻植。
「そやかて、兄ぃちゃんもう食べてるやないかい」本岡。
「兄ぃちゃん、まだ早いて!」勲。
「うどんの硬い柔らかいは、個人の好みやないか。さあ、お前ら早よ食べ」兄。
勲は、箸を持つ手をコッフェルの器の横にやり、唇を噛む。
夜の帳が下りたキャンプ場―。
パチパチと撥ねる焚き火を囲む四人の影。
夕食は、これ又キャンプメニューの定番、すき焼きだ。
昼に残ったカレーは、明日の朝食にまわす。兄の提案だ。
すき焼きの具を少し残し、出汁を多めに作る。その中にうどんの玉を入れる。勲はこれが大好物だ。
母の作るすき焼きうどんは、最高の美味だった。このうどんの為の前座として、すき焼きがあるのだと勲は固く信じている。それもトロトロに煮込んだうどんが、絶品だ。
しかし…他の三人には、そんなデリカシーは全く無い。
カレーライスの代わりの遅い昼食を済ませた三人。夕方までは、遊び放題だ。
勲は『台所岩』に登る。眼下には二股に分かれた滝が二本、飛沫を撒き散らしながら、清流の滝壺に落下して行く。
勲は右側の滝の溜まりに入り、腰を落とす。両手を岩場に支える。両足を流れに沿うように伸ばす。
「せいのお~っ!」の掛け声と同時に、両手を岩から離す。
スルスルスル~ヒュウッ~ザッバン!滝口から勲の体は空中に飛び出し、一気に滝壺に落ちて行く。〝人間ウォーターシュート〟だ!
滝壺から流れ落ちる清流が、プールのように穏やかになった水場で泳ぐ本岡と麻植が、嬌声を上げる。
勲が考案した滝滑りに二人は、驚嘆した。
スリル・スピード・サスペンス?遊び盛りの男子にとっては、最高の遊び道具だ。唇が真っ青になるまで、三人の中学三年生は滝滑りに興じた。
山の稜線に太陽が隠れ、キャンプ場の木々に止まった蝉の声が、フェードアウトして行く。
「よう見とれよ。割り箸をナイフでこうして削ってやなあ、先を尖んがらすんや。ほんで、虹鱒の口の方からこういうふうに、尻尾の方に突き刺して行くんや…」
虹鱒の体が横に波打っている。用意した粗塩を鱒のからだに塗りたくる。
数本のナイフセットを持っている兄が、三人に手渡す。見よう見真似で勲たちは、残りの七匹の虹鱒を調理して行く。
鱒の口を下にし、割り箸を焚き木の周りの石に縦に並べて行く。ジュ~ッと、脂が虹鱒の体内から滲み出てくる。
焼き魚の香ばしい匂いが、鼻孔に入って来る。
グゥ~ッ!腹の虫が容赦なく、鳴く。
兄は小学生の頃からのボーイスカウト活動で自然を相手にした、色んな知識を体得している。『キャッチ・アンド・リリース』なんて言葉も意味も、当時の大人すら知らない。
ましてや中学生が知る由も無い。ただ勲は、今岡との鮒釣りで知っていた。しかし、英語の言葉は知らなかった。
「藤田、鮒の子供はなあ、大人になるまで釣ったらアカンのや」
「何でや?」
「何でもや…」
そのことの意味もわからず、勲は釣りの師匠に従った。
「…そやけど藤田、釣った魚を川に戻したら、あいつら、他の魚に告げ口しよらへんのかぁ?『お前ら、絶対に魚肉ソーセージに喰らい付いたらアカン!』言うて…今度釣ろうおもたら、もう釣れへんのと違うかぁ?」
麻植の心配は、勲も今岡に問い質したものだ。
しかし次の日も入れ喰いだった。『キャッチ・アンド・リリース』に気を良くしたのか、兄は竈にまた火を熾した。
「ほな聞くけど、お前ら今釣った虹鱒、全~部喰える言うんか?」
「…俺、三匹ぐらいやったら、喰えると…思う」
「黙っていぃ!このボケ!そら全部は喰われへんけどもやなぁ、逃がすいうんは、勿体無いやんけ!」
「ほな、どうすんねん?」
「ど、どうする言うてもやなあ、とにかく勿体無いんじゃ!」
勲の処置に本岡は後に引かない。
「ほな、この岩の上に置いたままにしとけ言うんか?あのなあ本岡、魚は水の中で、えら呼吸して生きとるんやぞ」
「そんなこと言われんでも、分かっとるわい!そやけどもやなぁ…」
「…それを『キャッチ・アンド・リリース』言うんや!」
いつの間にか兄が、滝の上の台所岩に立って勲らを見下ろし、叫ぶ。
「こいつら、ソーセージ喰うのん初めてなんやろ。よっぽど旨いんやろなぁ!」
「藤田、鱒てソーセージの味、分かりよるんかぁ?」
「お前はアホかぁ!鱒かて、ベロあるさかい味ぐらい分からいでかい!」
天下を取ったように本岡は、麻植に威張り散らす。
三人合わせて二十八匹の釣果だった。中には体調四十センチの大物もいた。
勲は大物や稚魚以外の二十センチくらいの虹鱒八匹を選定し、残りは清流に戻した。
「何すんのじゃ、藤田!」
「そうやそうや!何で、せっかく釣った魚を逃がすんや?」
本岡も麻植も憤懣やる方のない眼差しを、勲に射遣る。
「よっしゃ!戦争ぉ~開始ぃ~っ!」
小学生の時のチャンバラごっこの始まりを告げる雄叫びを勲が、発する。
ドボッ、ドボッ、ドボッ~。三人が釣り糸を水面に投げ込む。暫らくして、ポコンと浮きが頭を出す。
その刹那、三本の浮きがググッと水面から姿を消す。勲の思惑通り、入れ喰いだ!
餌が川底から三十センチに行き着くまでに虹鱒たちは、ソーセージに喰らい付く。
水面から飛沫を散らしながら上がってくる鱒の腹の虹色が、真夏の太陽に照らされて、美しい。
竿を入れて、わずか十分足らず。大漁、豊漁、大大漁、大豊漁だ。
おやつに持参した、安物の魚肉ソーセージをリュックから取り出す。
兄はというと、独りカレーを食べ終え、テント横の岩場で昼寝を決め込んでいる。
「気楽な兄ぃちゃんやなぁ…」
天蚕糸を竿の先端に結び、糸の下から浮きゴムを通し、鉛板状の錘のシズを千切って巻き、糸先に針を結わう。
後は竿を清流に投げ、シズが川底に達したのを確認し、深さを測る。川底から三十センチほどの位置に釣り針が垂れるように、細長いプラスチック製の浮きをゴムに装填し、調整すれば準備万端。
魚肉ソーセージを一センチに千切り、針に通す。
「麻植、餌の赤虫はどこや?」と、勲。
「あっ、あ、あ、赤虫、買うのん忘れた…」
「あ、あ、赤虫て、しょうもない駄洒落かますな、ボケ!早よ出せ!」と、本岡。
「…駄洒落やない、俺、ほんまに買うのん忘れたんや…」
「いね!このボケ!竿畳んで早いこと、いんでしまえ!」
虹鱒に負けず劣らず、本岡は顔を紅潮させた。やばい兆候だ。
こうなると必ず本岡は相手に蹴りか、鉄拳を見舞う。
勲は本岡と麻植の間に割って入る。
「本岡、そないにいきるな。よう見てみい、ここの虹鱒は人の気配に慣れとらへん。俺らの姿が水面に映ってんのに、ビクッともしよらん。それにこんだけ濃い釣り場は今まで見たこと無いわ」
「…それがどないしてん?」
本岡の機嫌が直りつつある。
「この様子やと、こいつらどんな餌でも喰らい付きよる」
大和川や恩地川周辺の野池で鮒釣りを重ねて来た勲は、釣り名人だ。と、自画自賛している。事実は、一緒に釣りをした今岡の弟子なのだ。
海パン一丁になった勲、本岡、麻植は自分の釣竿を片手に、二股に分かれた滝の横の岩場を降りる。
滝に向かって右側に平らな岩場がある。畳四畳半位のスペースだ。二メートル下、透明の深緑色の清流の流れの中に、虹鱒が群れをなして遊泳している。
赤目四十八滝は、鱒釣りで知られる釣り場が滝壺に多く点在する。
「カレーライスは、おあずけされてしもたけど、虹鱒やったら塩焼きにして喰うても、兄ちゃんも怒らへんやろ…俺らの釣果やさかいになぁ」
勲の言葉に二人は涎を垂らし、俄然、ファイトが沸いてきた。
飯盒の米も炊け、カレーも煮立った。旨そうな匂いがキャンプ場に漂う。
グウーッ!腹の虫が、鳴く。
しかし兄は、生木を切り倒した事、生ゴミを川に流した事の罰として三人の昼めし抜きの判決を言い渡した。何も悪い事をしていない麻植にとっては、青天の霹靂である。
一時間半、リュックサックを背負っての川沿いの行軍。汗はほとばしり、腹の虫は鳴き叫んでいる。昼めし抜きは堪える。後悔先に立たず、だ。
「勲、お前さっき調理した野菜の皮、どうした?」
「えっ?」
「えっ、やない、皮はちゃんと一箇所にかためて置いてるやろなぁ」
「いいや、そのう、あの川に流したけどぉ… 」
振り返って『台所岩』を指さす。
「何やと?川に流した?このボケ!」
勲はしこたま兄に頭を拳で打たれた。
「言語道断じゃ!あのなあ、そら、お前が調理してた岩場の周辺は綺麗になったやろ」
「…あの岩場は台所岩いうんや」ぼそぼそと呟く。
「何?」
「…何でも、ない…」
「キャンプの基本中の基本は、生ゴミは集めて土の中に埋める事。そうすると生ゴミは腐敗した後、月日が経つとまた土に戻るんや。言うたら〝輪廻〟や」
聞いた言葉だ。そうだ。母が荼毘に付されている時、有沢の兄が言った。
「勲、お前〝輪廻転生〟言う言葉知ってるか?」
あの時は初めて聞いた言葉だが、今の勲は本岡や麻植よりは良く理解している。
「おい!この丸太、誰が切り倒してきたんや!」
「……」
何故、兄はこんなにも激怒しているのだろう。
「さっき俺が言うたやろ!生木は切ったら絶対アカン言うて!」
「…『絶対』は、言うてへん…」
勲は心で呟く。
「そうか!生木言うたら、枯れてない木ぃのこっちゃったんや」
麻植も心で呟く。
「切り倒したんは、俺です」
本岡は潔い。
「そやけど兄ちゃん、本岡は兄ちゃんが言うた時、もう茂みに入ってたんや」
勲が庇う。
「そんな事はどうでもええ!お前らよう聞けよ。この丸太はなあ、生きてるんや。よう見てみい!切り口から樹液が垂れてるやろ。これはなあ、人間で言うたら、血ぃや。お前ら、生きてんのは人間とか動物、魚、昆虫みたいに動いて息してる者だけが生きてると思うてんのと違うか?」
「………」
「花や草やったら、萎れるから生きてると感じるか知らんが、木かて生きてるんやぞ!それに木はなあ、空気中の二酸化酸素を吸うて酸素を吐き出してるんや。お前ら酸素無かったら、死ぬこと知ってるか?この木を切り倒して死なしてしもた言うことは、お前らが生きる為の酸素を提供してくれる者を殺した言うことや」
三人はうなだれ、返す言葉も無い。
「藤田、どうでもええけどお前とこの兄貴、人使い荒いのお」
本岡が不満を漏らす。
「ええやないか、こうして俺らをキャンプに連れて来てくれたんやさかいに」
珍しく、麻植がT中の番長を諌める。
「何やとお!」
「本岡!麻植は俺の親友や。それに、せっかくのキャンプやないかい、楽しいにやろうや」
眉間に皺をよせた本岡は、それでも不満そうな表情だ。
「コラッ!お前ら早いことこっちに来い!」
いやに兄の声音が厳しい。勲には分かる。兄弟だ。
三人は竈場からテントを張る場所に向かう。
料理はお手のものの勲が調理を、本岡と麻植は米を川でとぎ、飯盒で炊く。
勲は左右に滝を分ける三畳分くらいの楕円形の岩場を台所にした。木の俎板の上で、じゃがいも、人参、玉葱、そして牛肉をテキパキと刻んで行く。
「…この岩は最高や!じゃがいもや人参、玉葱の皮は川に流したら、スーッと流れて滝壺に消えて行く。…そうや!ここ、台所岩いう名前にしょ」
小石を囲むように並べて、風が入らない様に作った兄の竈で、飯盒とカレー鍋を炊く。
「お~い、テント張るから手伝え!」
次から次へと兄の指示が飛ぶ。
茂みの中から勲と麻植は、枯れ葉の付いた小枝の束を抱え、本岡は太さが一〇センチはある丸太を引き摺りながら出て来た。そしてシートを敷く場所に小枝を並べる。四人が寝るスペースが、平らになる様に小枝を敷きつめて行く。小枝の上に葉っぱをばら撒く。なかなか心地よいクッションが出来上がった。本岡はというと、枕になる部分に丸太を置く。
「よ~し!ほんだら昼めしの用意や」
コッフェルと飯盒(はんごう)を水辺にセッティングし終えた兄が指示を出す。キャンプの昼めしと言えば、カレーライスが定番メニューだ。
「お前ら、まずはテントを張る場所を決めろ。岩場の一番平らなとこがええんや。そこを決めたら次はシートの下に敷くクッション用の小枝や葉っぱ集めや。ええか?生木は切ったらアカンぞ」
「生木て何や?」麻植が勲に聴く。
「…さあ、分からん。とにかく寝床を柔らかにする、枯れた葉っぱを集めよ!」
本岡は、さっさと川岸の茂みの中に消えていた。後を勲と麻植が追う。
バサッ!バサッ!バサッ!コン!コン!コン!バサッ!バサッ!バサッ!コン!コン!コン!
兄の指示に従って勲、本岡、麻植が持参した自分たちの荷物を出す。
荷物といっても海パンにバスタオル、パジャマに洗面道具、そしてゴム製のビーチサンダルくらいの物。
ズック靴をビーチサンダルに履き替え、パンツを脱いで海パンを着ける。
「ワァ~、お前、チンポ小さいなぁ!」
「オッ、お前、毛深いのぉ!」
三人三様の股間の造りを互いに観察し合う。
兄はテント袋を解きながら勲たちをを振り返り、頬笑んでいる。
三人はそれぞれ自宅から斧を持参している。この頃、どこの家にも斧は常備されていた。風呂を焚く時の種火用の板を割ったりするのに用いる。
テントの入った大きなリュックサックを背負った兄を先頭に、小振りのリュックを担いだ三人が後に続く。
手にはそれぞれ、自分の釣竿を握っている。渓流を右に左に見遣りながら、途中休憩を挟み上流へと歩を進める。
中学時代からボーイスカウトに入団し、その後もシニアスカウトのリーダーを経験している兄の歩調は速い。
ゲートから約一時間半、大きな岩場を中心に左右に二本の小瀑が滝壺に落ちる、荷担滝に着いた。
巨瀑こそ無いものの、原生林に包まれた渓流沿いに遊歩道が整備され、様々な顔を持つ滝を鑑賞しながら遊歩が楽しめる。
四十八滝のゲートには、日本サンショウウオセンターがある。大きな生け簀の水の底には特別天然記念物のオオサンショウウオが、うようよとへばり付いている。
四十八滝の清流の岩陰にも棲息していると、兄が解説する。勲、本岡、麻植は、これから目指す荷担滝の辺りにも居るかも知れないと想像すると、背筋がゾッとした。
テントの入った大きなリュックサックを背負った兄を先頭に、小振りのリュックを担いだ三人が後に続く。手にはそれぞれ、自分の釣竿を握っている。
渓流を右に左に見遣りながら、途中休憩を挟み上流へと歩を進める。
中学時代からボーイスカウトに入団し、その後もシニアスカウトのリーダーを経験している兄の歩調は速い。
ゲートから約一時間半、大きな岩場を中心に左右に二本の小瀑が滝壺に落ちる、荷担滝に着いた。
巨瀑こそ無いものの、原生林に包まれた渓流沿いに遊歩道が整備され、様々な顔を持つ滝を鑑賞しながら遊歩が楽しめる。
四十八滝のゲートには、日本サンショウウオセンターがある。大きな生け簀の水の底には特別天然記念物のオオサンショウウオが、うようよとへばり付いている。
四十八滝の清流の岩陰にも棲息していると、兄が解説する。勲、本岡、麻植は、これから目指す荷担滝の辺りにも居るかも知れないと想像すると、背筋がゾッとした。
中学生活最後の夏休み。勲の上の兄がキャンプに連れて行ってくれた。
兄はこの春、大学を卒業し、父の後を継ぐべく藤田印刷の若旦那におさまっていた。
とは言っても斜陽の学習帳印刷屋は、父と兄の二人きり。家業は暇だった。
七月二十六日の勲の誕生日祝いを兼ねた、優しい父のキャンプ提案だった。
勲、本岡、麻植と兄の四人は近鉄大阪線・赤目口駅に降り立った。
奈良と三重のほぼ県境を東西に流れる滝川。その上流、約四キロに渡って『赤目四十八滝』の渓谷美が続く。
『赤目』の名の由来は、修験道の祖・役行者が赤い目をした牛に乗った不動明王を見たという伝承によるという。
四十八滝というのは、多くの滝が有るという意味である。
「…お前ら、何か用か?」
本岡が静かに質す。
「……そこの女の子が気になっただけや」
「何や、この子と交際でもしたいんか?」
さらに優しく本岡が訊ねる。
リーダーらしき奴が呟く
「…俺と、交際してく…」
「じゃかぁしいわい、われ!一体、誰に物言うとんじゃ!舐めとったら承知せんど!」
勲はフレアスカートの前をめくって、啖呵を切った。
二中の奴等は狐につままれたかのように、目を丸くして踵を返し走り去ってしまった。
勲たちは腹を抱えて大笑いした。
この一団に隣のF市二中の五、六人が目を付けた。勲と本岡が二年の時、二中三年の番長・ツートンを退治した、あの中学の連中だ。
「あのボケらメンチ切っとんど!」
喧嘩っ早いゴンボが既にいきり立っている。
「ゴンボ、今日は喧嘩やめや。藤田の女装で愉しもうや」
本岡が珍しくゴンボを制する。
「そやけど、ここで引き下がったら俺等の面子、丸潰れやないか!」
勲は二度と喧嘩しないと母の亡骸を前に、誓った。
「どつき合いせえへんかったら、ええんやろ?本岡、俺に任せとき」
勲は二中の奴等に視線を戻し、にこっと頬笑みながら手招きして深江稲荷神社の小路の方に誘う。
それに釣られて二中の連中が、ゾロゾロとついて来る。勲が外灯の下で止まり、振り向く。その周りを本岡たちが囲む。
勲ら集団は本岡を先頭に、村瀬、ゴンボ、タモン、バッタが夜店の中を徘徊する。
人混みは、T中のやんちゃ坊主たちに道を明けては、ワンピース姿の勲を振り返る。
子役時代、もちろん主役など演じられることの無かった勲は、今はヒロインだ。
人の流れの中に勲は、麻植を見つけた。
何も知らない麻植は、集団を避けて右側に寄った。勲は左に身を寄せ、すれ違う刹那、右手で麻植の股間を思いっきり摑む。
「ギャーッ、何すんねん!」
麻植は粟を食って悲鳴を上げる。
「あんた、ええチンチンしてるんやねえ」
お姉言葉で勲は頬笑みを返す。
「…ど、どないなっとるんや?女が男のチンポ、握りよってからに…」
麻植は人混みの中へ消えて行った。
集団は一斉に笑い転げた。
夜店のこの日、小道具を兄の紺色のマディソン・スクエアーガーデンのバッグに詰め込み、自転車で本岡の家に向かった。
本岡の部屋には姉のワンピースと化粧ケースが用意されている。
勲は水泳用の海水パンツいっちょうになった。濃紺のナイロン製のビキニタイプ。ピタッと股間を押える優れもの。その頃巷で流行っていた。
ワンピースに足と腕を通し、本岡に背中のジッパーを上げてもらう。本岡は声を殺し、馬鹿笑い。
勲はピンクの口紅だけの化粧を済ませ、三つ編みを着ける。そして黄色のパナマ帽を深めに被る。
「お母ちゃん、ちょっと夜店に行ってくるわ!」一階に降り、勲は玄関で白のローヒールを突っかける。
「あんまり遅ならんようになぁ」台所から顔を出した本岡の母は、勲の姿を目にして、凍てついた。
「……よしお、女の子ォ、来てたんか?」
「違うがな、これ藤田や!」本岡の母は目を疑った。
勲は先日、工場の二階の納屋で二つの木箱を見つけた。
蓋を開けてみると中には、かつらが入っていた。もちろん人毛で出来ている。祖母が使っていたのか、母も使っていたのか?その中に三つ編みとポニーテールの〝付け毛〟が混じっていた。
これはたぶん姉の物だ。女子高時代からモダンバレーを習っていた姉の舞台用の小道具に違いない。
今は使われていない二階の住み込み職人の部屋に入り、薄汚れた壁掛け鏡の前に立つ。
三つ編みを手にし、黒く太いゴムの輪っかを頭に被る。坊主頭に三つ編み。勲はぷっと吹いた。鳥の羽根を頭頂にあしらえば、インディアンだ。
「よし、これは何かに使える!」
「…お、お前!ほんまに、藤田かぁ?」
「き、綺麗なあ!どう見ても…女や」
「そやろ!服は俺とこの姉ちゃんのワンピースや!」本岡が誇らしげに胸を反らす。
赤の水玉模様のワンピース、フレアスカートだ。腰にも赤のエナメルの太いベルト、真っ白のローヒール。
これは勲の姉が嫁ぐ時、置いていったもの。三つ編みの頭には、チョコンと黄色のパナマ帽子、黄色いリボンが後ろに垂れ下がっている。
風薫る五月が過ぎ、湿った大気が下町に澱み始める六月―。勲の母の一周忌も終わった。
小学校四年の冬、お年玉でGパンを買った深江市場。その南の角からタドンとよく食べたたこ焼きの屋台のある新道筋商店街まで、月に二回夜店が出る。近隣に在る小中学生たちがたむろする。
小学生たちは友達と連れ立って綿菓子を頬張り、金魚すくいや輪投げに興じる。高学年や中学生はと言うと、スマートボール、パチンコ、射的など腕次第で商品の貰える店に群がる。
深江稲荷神社に通じる小路辺りは、一本の外灯が点り、薄暗い。
そこに一塊の集団が輪を作っている。
コウモリが神社の木立の間に姿を見せ始める。
深江稲荷神社の境内の隅の座石に腰を下ろす。
「藤田、良かったやんけ!」
「ほんまや、良かった!山形、叔父さんとうまいことやっとるんやなぁ」
「しかしあいつ、作業服着とったら、おっさんみたいやなあ」
「…そやけど、あいつ、偉いなぁ。確かに学校では鹿児島訛りが恥ずかしいんか、無口やけど、さっきの姿見て、こう、何ちゅうんか、男気のある奴っちゃなあ」
「男気かぁ……」
「俺みたいに、ここで生まれ育って、何の気なしに生きてる人間とは、どっか違う……」
「藤田、お前、えらい山形を気に入ったもんやなぁ?」
「自分に無いもん持っとる奴は、気になるもんや…」
コウモリの群れが灰色の空に溶け込み、それにオーバーラップするように、西の空が茜色に染まり始める。
勲は山形の暮らしぶりが気に掛かっていた。
十四歳の少年が単身、鹿児島から大阪にやって来て叔父の家に居候し、家業を手伝いながら中学校に通う。
なにがしかの理由(わけ)があるのは、勲にも察しはつく。何も山形の私生活を探ろうと言うのでは無い。転校して来て友人も居ない山形と、ひょんな事から友達になった。その山形がもしかして叔父の家で、辛い思いをしてはいないだろうか?
山形からすれば、余計なお世話といったところだろう。
しかし勲は山形の生活の一端でもいいから、事実を知りたかった。
「…何じゃい、おまんらは?」
作業場の中を覗き込む二人に山形の叔父は、不審げな目で睨み付ける。電動カッターが止まる。
「あっ……、叔父さん、ええんじゃええんじゃ、こいらはワシの中学の連れたい!」
「…そんかい、おまんら、こいをよろしゅう頼むばい!」
勲と麻植は軽く会釈を返す。
山形が店先に歩を進めながら「どしたんじゃい?」と軍手を取る。
「いやあ、お前の仕事振りを見にきただけや」勲は何か誇らしげに言う。
「山形、お前、もう立派な職人やんけぇ!」麻植も勲同様の思いなのであろう。
「…うんにゃ、叔父さんみたいには行かんばい…」山形の肩越しの叔父が、頬笑む。
「…良かったなあ、藤田!」麻植が満面の笑みを浮かべる。
「何がよかじゃと?」山形が首を傾げる。
「何でも無い、お前がどんな手伝いをしてるんか、知りたかっただけや!」
「藤田、おまんは変わり者じゃのぉ。ワシの手伝い見て楽しかか?」
「まあ、そういうこっちゃ!邪魔して悪かったなあ。叔父さん、失礼します!」
サドルに跨り二人は、店を後にする。
深江橋を南へ一キロ、新深江の交差点辺りは鋼管材や鉄板を、客の注文の寸法に切断して卸売りする店が軒を並べる。
その一軒が『山形鋼管商店』である。
勲は放課後、麻植を伴って自転車で店を訪れた。
灰色の作業服の上下を身に纏い、作業帽を被り、軍手をはめ、太い鋼管を固定電動カッターで切断している。飛び散る火花にも薄目で作業を続ける山形の姿は、とても中学三年には見えない。
もう一人前の職人だ。
「村上、先生ちょっと体の調子悪そうやから、保健室行きはった。これからは自習いうことや」勲は学級代表の村上に告げる。
「分かった、ではこれからは自習にします!」
「ウワァ!」多くの生徒にとって自習は、休み時間の感覚だ。
頭の良い奴等は文字通り自習を始める。
勲は山形に眼で合図を送り教室から連れ出し、先のベンチに座る。山形は大柄で背丈は一八〇センチ以上ある。勲とは一〇センチ近くの差がある。
「山形…小山先生のこと堪忍したってくれや」
「…おいは、別に気にしとらんばい」
鹿児島訛りだ。それが恥ずかしいのか、山形は口数が少ない。
「あのなあ、あの先生ちょっと体が悪いみたいや。そやからすぐイライラしはるんや。お前は転校してきたばっかりやから分からんかも知れんけどなあ…」
「…ありゃあ軽か小児麻痺たい。左手が、ちと動かし難いんじゃろう」
「……お前、知っとったんか?そうかぁ…。そのことを陰口たたく奴もおるんや」
「そりゃぁ許せんばい!」
山形は、奈良東大寺・南大門の阿吽像の吽形の面構えに似ている。しかし、厳つい顔とは裏腹に心根の優しい奴だと勲は感じた。
「…おいが転向ばしてきよって、こげん話しばしてくれよったんは藤田、おまんだけたい!」
山形が、はにかみながら目を細める。
勲は、麻植に次いで山形と友達になった。とは言っても山形は学校が終わると一目散に帰ってしまう。家庭の事情は知る由も無いが、居候している叔父の家業を手伝わなければならない。
「アカン、先生、アカン!」
小山は癲癇(てんかん)でも起こしたかのように体が硬直している。
「皆、この事は絶対に内緒やぞ!わかったなあ!」
勲は小山を教室から連れ出した。
木造廊下を二人で歩き、一階に降り、校庭に出、泉水横のベンチに座る。
「……先生、落ち着いて下さい。山形が居眠りしてたんは、あいつが悪いです。そやけどあいつは九州からこの春、単身で大阪に越して来たばっかりなんです。毎日、叔父さんの鋼管卸屋の手伝いをしとって疲れとるんです。お願いやから許したって下さい!」
「……」
小山の硬直が緩み始めている。
「先生、保健室行きましょか?後のことは俺があんじょうしときますから…」
まさか生徒に教諭が保健室に連れて行ってもらう訳にはいかない。小山は保健室に向かう。
「先生!後は自習いうことにしときますから、休んで下さい!」
小山は後姿で頷いた。
数学担任の小山教諭。
細身の体、神経質そうな眼、左手に少し障害がある。
黒板に書く数字も、神経質そうに整然としている。
生徒達が私語を漏らすと素早く振り向き、チョークを投げる。そしてヒステリックに喚き散らす。
勲は数学が苦手だ。小学三年の時の九九の後遺症に違いない。
或る日、小山のヒステリーが度を越し、一人の男子生徒の机をひっくり返した。
勲は小山に近づき、背後から抱きついた。
「ええ歳して、小学生かぁ」
と、麻植。
「麻植、お前この雰囲気変えたれ!」 マイクが麻植に渡る。
♪ここは~お国の何百里~
離れて遠~き満州の~
赤~い夕陽に照らされて~ 友~は
野末の石の下~
ポンタが後ろを向く。
「……ほ~うっ、麻植、お前えらい古い軍歌、知っとるんやなぁ~」
孫を見る眼でポンタが唸る。
「麻植二等兵、歌終わりました!」
直立した麻植は、敬礼をポンタに返す。車内がドット沸く。
♪リスン ツー ザ レイゼム オブ ザ フォーリング レイン
テリング ミー ジャスト ワット ア フール アイヴ ビーン
アイ ウイッシュ ザッツ イッツ ウオールド ゴー アンド レット ミー クライ イン ベイン
アンド レット ミー ビー アロン アゲイン
カスケーズの『悲しき雨音』。
勲は生徒手帳のメモページのカタカナを英語にし、歌う。
生徒達が勲を振り返る。今は、涙せずに歌える。
『恋の売り込み』『悲しき16才』と、メドレーは続く。
目立つ事のみのポップスの特訓は、実った。
♪雲~白き 生駒の峰にぃ~
仰ぎ見るは平和~の光~ぃ
大いなる~光のもとに
大いなる~理想をいだき
われ~らのたヾしく育つ
T中学ぅ~
バスの中の前に座る連中が合唱する。ポンタへのヨイショの校歌である。
ポンタは流行りの歌謡曲やポップスを嫌う。
♪小さな湖畔の森の影から
もう起きちゃいかがと
カッコウが鳴く
カッコウ~カッコウ~カッコウ~カッコウ~カッコウ~
女子生徒達が、当たり障りのない輪唱を繰返す。
勲と麻植にとっては面白いことも何ともない。
その後も小学唱歌が続く。
バスと徒歩での嵐山・嵯峨野の史跡巡り。
午後三時過ぎ、十台のバスは帰路につく。これからが生徒達の楽しみのひと時だ。
ポンタが車内マイクを通して、今日の郊外教授を総括する。
マイクは生徒に手渡され、前の方から順に得意な歌を披露する。
「待ってましたぁ!」 最後部座席の勲と麻植が、トップバッターの生徒を囃し立てる。
クラスで一番背の低い、乾が歌う。
「麻植、うちの家は禅宗なんや」
「そうか、ほんだら京都五山筆頭の天竜寺は、親分みたいなもんやなあ」
「ここは臨済宗やろ、うちは曹洞宗や」
「そうか、道元禅師が開祖で、福井の永平寺が親分ちゅう事かあ」
「麻植、お前えらい詳しいなぁ?」
「うん、俺、歴史好きなんや!」
「そうかぁ…」
歴史好きの勲は一層、麻植が気に入った。
次に行くのが嵯峨野。この辺りで勲が好きなのは、江戸時代の俳人・向井去来の草庵跡の『落柿舎』。
去来は松尾芭蕉門下。元禄四年(1691)芭蕉はここを訪ね〔嵯峨日記〕を書いてる。
もう一箇所が『常寂光寺』京の町衆が寄進した宝形造りの多宝塔が美しい。
藤原定家が山荘を営んだ跡とも言われている。
「皆さん、こちらが天竜寺です。京都五山に数ある禅宗寺院の中でも筆頭に位置するのがこの天竜寺なのです。
南北朝の争乱を通して室町幕府権力を確立した足利尊氏が、後醍醐天皇を慰霊するために夢想国師を通し建立した臨済宗の寺で、その塔頭は百五十余りを数えたと言われています。
寺内には夢想国師が造園したと言われる庭園があり、嵐山・亀山が巧みに借景に取り入れられた『池泉回遊式』庭園は、実に豪華な造りとなっております」
丸暗記で感情のこもらない、バスガイド特有のしゃべり方。
ガイドの持つ旗を先頭に寺内に入る。
麻植が勲の水筒を手渡す。キャップをねじり一気に茶を食道に流し込む。
「ふ~っ!」
「そんなに焦らんでも、昼飯の時間はまだタップリあるさかいに」
次は七組。安田美代子のクラスだ。
背の高い美代子は最後列の真ん中、男子生徒との境界に立っている。隣の山本がにこやかに話し掛けている。
五年の林間学校の入浴の時、股間を手拭いで隠す山本を皆で襲い、手拭いを引っ張り、薄い陰毛を白日の下に晒してやった。その山本が代表、美代子が副代表だ。
二人の話す光景に勲は、訳の分からない嫉妬を覚えた。
「おっ、辻木幸代や!」麻植が指差す。「藤田、辻木や!」
「それがどないしてん?」
「うっ、お前、辻木のこと好きなんと違うんか?」
一年の時、タドンと交わした会話を想い出す。
「しょうもない事言うな!今後、口にしたら何ぼお前でもしばくど!」麻植は、俯く。
男子生徒の中の有沢幸男が、澄まし顔でカメラのレンズを見ている。
五組の撮影が終わり、勲と麻植は川原のベンチに座り、弁当を広げる。
麻植の母が勲の分も作ってくれた。
「麻植、すまんな、おばちゃんにお礼言うといてや」
「かまへん、かまへん、兄貴のんも作るから、そのついでや」こいつは心優しい、と勲は感謝する。
御飯の上に、かつおと海苔が乗ったこの頃の定番の弁当だ。御飯を頬張りながら勲の視線は、六組の記念撮影の方に行く。目が合った。岡浩子が勲を見つめている。
「うっ!」勲は御飯が喉に詰まった。
嵐山のシンボルと言えば、やはり渡月橋だ。
京都を代表するイメージを創りあげている渡月橋周辺の景色は、春夏秋冬その色彩を変えて訪れる人々を魅了する。
春は桜と竹林が潔く山々を優しく飾りつける。秋は紅葉が全山を覆う。
夜、大堰川の川上から渡月橋を観ると、月が橋を渡るかのように見える。橋の名の由来である。
嵐山は王朝の昔から行楽の地であった。大宮人だけでなく庶民もここを訪れて遊び戯れた。また多くの山荘や庵が構築され、平安貴族の嵐山清遊には舟遊びが付きものであった。車折神社の〔三船祭〕は、王朝の昔を偲ぶものである。
渡月橋を中心に中ノ島公園があり、橋の東北・臨川寺辺り一帯を総称して嵐山公園と呼ばれている。
中之島公園で渡月橋をバックにクラス単位の記念撮影が始まる。
春の校外教授は京都の嵐山。
T中学の周りに待機した十台の観光バス。一組から順に十組までの全生徒がバスに乗り込み、出発。
勲と麻植は最後部の左窓際の特等席だ。車内全体が見渡せ、担任のポンタからは死角。
勲は父母と下の兄と何回か嵐山周辺を散策した。京都好きの勲の胸は躍る。
勲はF市の北口駅前商店街のミドー楽器でドーナツ版を手に入れる。
エディ・ホッジスの『恋の売り込み』 ニール・セダカの『恋の片道切符』 へレン・シャピロの『悲しき16才』等々。
勲は日本語訳のカバーが嫌いで、レコードジャケットの裏の英語歌詞を生徒手帳のメモページにパイロット万年筆で書き写す。そして英語読みを単語の上にカタカナでルビをふる。何回も何回も、レコードが磨り減る位聴き、英語の歌詞を暗記する。
目的は只一つ、目立つ事のみ。
母が亡くなった次の日、マッカの家の卓球場で哀しくラジオから流れていた、カスケーズの『悲しき雨音』は、既にクリアしていた。
この箱型大型ラジオから細い電気コードが奥の間の敷居の縁を這い、台所の食器台の上に置かれた半円形の型のスピーカーに接続されている。
卓袱台での食事の時など、家族全員で良くラジオ放送を聴いたものだ。
『赤胴鈴之助』が勲は一番好きで、父母は、花菱アチャコ・浪花千栄子夫婦が織り成すホームコメディ『お父さんはお人好し』兄たちはNHKのクイズ『二重の扉』のファンだった。
勲の家には、木目調の箱型の大型ラジオが奥の床の間の横、違い棚の下のスペースに鎮座していた。
前面左右のスピカー部分は茶色の細かい穴の開いた四角い布で覆われ、その上部に各放送局の周波数値が書かれた透明のプラスチック・プレートがはめ込まれてある。
ダイヤルを回して選局すると、赤い縦線がプラスチック内を左右に移動する。周波数をキャッチすると、右上に取り付けられた丸い薄緑色のガラス製センサーが自動的に反応し、扇を広げてそのまま円になってしまうような動きで深緑色に変色する。
上蓋を開けるとレコード盤があり、SP、LP、ドーナツ版が掛けられる。回転数も78・45・33と変換できる優れものだ。祖父の時代からあり、今でも祖父が愛聴したSP盤が沢山保存されている。
広沢虎造の浪曲、初代・桂春団治の落語、砂川捨丸・春代の鼓を使った音曲漫才、エンタツ・アチャコのしゃべくり漫才などが、今でも甦る。
音楽バラエティー番組『ザ・ヒットパレード』は今尚、テレビの人気番組だ。
} この番組で中尾ミエ、伊東ゆかり、園まりの〝三人娘〟をはじめとして、森山加代子、弘田三枝子、九重祐三子、田代みどりなどの女性歌手、坂本九、佐々木功、スリー・ファンキーズ、田辺靖雄、克美しげる等が次々と登場。大半は十代の若者で〔ミルク・ティーン〕と呼ばれた。
彼等はコニー・フランシスやブレンダ・リー、ヘレン・シャピロ、二ール・セダカ、エディ・ホッジス、ザ・ヴェルヴェッツといった洋楽ポップスの日本語カバーをテレビでレコードで歌いまくった。
カバー・ポップス第二世代である。レコードは、33回転のドーナツ版だった。
中学に入学して初めて勲は、村瀬に在日韓国・朝鮮人の存在を知らされた。
そして今、麻植に〝よつ〟という新しい存在を知らされた。勲の心の中には分析不可能な、何かモヤモヤとしたアミーバーの形をしたような塊が増殖し始める。
「その、よつがどないしてん?あの中村がお前に何かしよったんか?」
「…いいや、別に何も…」
「ほな、嫌うこと何も無いやないか、そうやろ?家が靴屋のどこが悪いんや?お前、靴どこで買うんや?靴屋やろ?ほな、靴屋が無かったら困るやろ……中村、ひょっとしたら鳩飼いよんのと違うか?…俺、飼育の仕方、教えたろかなあ…」
勲は話を逸らし、惚けてみせた。親友の麻植を傷付けたくなかった。
「そやなぁ…俺も鳩、飼いたいなぁ…」
話の核心が、逸れる。勲は心を撫で下ろした。しかし、これで麻植の中村への、差別意識は消えたのだろうか?
勲の小学生時代に〔同和教育〕は無かった。勿論、中学でも無い。人種差別は言わば公然と行われていたように思う。
H小学校時代―。全校生徒の昼ご飯は給食だった。給食を終えると、低学年、高学年、男女問わず一斉に校庭へ飛び出し、昼休みを謳歌する。男子は“ちんぽ踏みん”“キックベースボール”“相撲”に“鉄棒”“竹登り ”女子の人気は“ドッジボール”と“ゴム跳び”だった。 1500人以上の全校生徒が校庭内を埋め尽くす様は、まるで関ヶ原の戦場さながら。しかし、校舎の窓から顔を半分隠して校庭を眺める数人の男女生徒がいる。勲はそんな存在すら知らず“ちんぽ踏みん”に興じている。
「…おっ、来よったぞ!乞食のおっさんとおばはんが…」
やんちゃ坊主達が遊びを止めて、給食室の廊下の方に目を遣る。廊下の外にはリヤカーに汚れた木の樽が4個乗っている。夫婦はその樽の中に給食の調理用の大きな鍋から柄杓で残飯を流し込む。豚の餌にするのだ。
当時、養豚場の多くは在日韓国・朝鮮人の貧しい家庭の主たる雑用であった。その家の子供達が言葉の暴力で、差別されていた。
勲は、この時点ではその事実を知らなかった。
『士農工商』は封建時代の基本的な身分制度である。
すでに豊臣秀吉の〔検地〕や〔刀狩り〕によって、その基礎は作られたが、江戸時代に入って確立した。
武士は支配階級として苗字・帯刀・切り捨て御免などの特権を持ち、農民は年貢の負担者として次の身分に置かれ、工商は〝町人〟と呼ばれ、その下に置かれた。
士農工商の下に更に低い身分として〝穢多(えた)非人(ひにん)〟の身分が設けられ、社会的にも経済的にも大きく差別された。
江戸時代には穢多・非人にのみ許された職業(革製品の製造など)があった。
関西地方では〝よつ〟と呼んだ。
「藤田、俺が何であの二人が嫌いなんか分かるか?」
「…分からん」
「お前も知っての通り、吉田はパクリばっかりしとるんや。なんぼ家が貧乏で、お母ちゃんが一人で家計を支えてるいうても、パクリはあかん!」
「ほんだら吉田はまだ物や金、盗んどるんか?」
「そうや、藤田らの前でばれたらどつかれる思うて、おとなしゅうしとるだけや」
もう喧嘩はしないと心に決めた勲は、吉田を何とかしてやりたかった。
「それになぁ……中村は…よつや!」
「よつ?…よつ、て何のことや?」
「藤田、お前、よつも知らへんのか?あいつの家は、靴屋や!」
「クロキィ、お前、あの二人嫌いなんか?」
「……藤田、あいつらの前で絶対に〝クロキィ〟言わんといてや!」
「何でや?」
「何ででもや!藤田には誰も渾名付けよれへんやろ?それは、お前をビビッてるからや。藤田と二人だけの時だけ〝クロキィ〟言うても、ええわ…」
勲は、自分が恥ずかしくて赤面した。
同じクラスで最初に友達になった麻植の顔が黒いから、面白半分に付けたクロキィという渾名。おまけに、名前が面白いという理由だけで〔代表 麻植彦三郎 副代表 多々良桃代〕の二人を、負ける事を承知で選挙で投票させる画策をした。情けない。
鳩を飼う時、何かと世話を焼いてくれたキミコウを失った現実を今また痛感している。
「すまん、もう絶対に渾名で呼ばへん!麻植、堪忍してくれ」
「…俺の前だけやったら…」
「……クロキィ!」
「ハハハッ!それでええんや!」
麻植の心優しさが、身に沁みた。しかし勲は、二度とクロキィと呼ば無いことを心に誓った。
麻植は父母と兄、そして叔父夫婦の五人で住んでいる。
驚いた事に麻植の家の向かいのアパートの二階に、あの吉田が住んでいた。
平屋の前の小さな床机に勲は、クロキィと座り、春の日向ぼっこをしていた。そこへ、放出街道を左折して二人の中学生が路地に入って来る。
「おっ、藤田やんけぇ!」
吉田が友人を連れて帰って来た。隣のクロキィが一瞬、嫌な顔をした。
「…何や、麻植、お前藤田と連れかい?」
「……それが、どないしてん!」
クロキィは、明らかに目の前の二人を避けている。
「藤田、こいつ知らんか?四組の中村や!」
「…本岡と一緒の組かぁ」
「そうや、俺、中村や、よろしゅう頼むで」と会釈する。
「吉田、早よ鳩見せてくれや」
「吉田、鳩はまだ一羽か?」勲が聴く。
「いいや、雌一羽飼うて今、番(つがい)にしてるとこや。ほな、行こか…」
二人は、アパートに消えた。
勲は初めて、麻植の家に遊びに行った。
H区深江東・南地区の氏神『深江稲荷神社』。
創建は第十一代の垂仁(すいにん)天皇の御代というから歴史は古い。江戸時代に伊勢参りが庶民に流行った頃に歌われた『伊勢音頭』に―“大阪はなれて早や玉造 笠を買うなら 深江が名所 ヤートコセ、ヨーイヤナー”―がある。
境内には〔笠縫部の祖〕を奉祀する笠縫社がある。昔、深江は良質の菅草が豊富に自生する浪花の一つの島だった。垂仁天皇の御代に、大和の笠縫邑から笠縫部が移住し、代々菅笠を作り、菅笠島と呼ばれるようになった。
以後、歴代天皇即位、大嘗祭の時は天皇に差し掛ける御菅蓋(菅笠のこと)をはじめ、伊勢神宮式年遷宮に用いられる菅御笠、菅御翳(さしは)等、すべて深江から献納したと言われている。
そんな由緒正しき『深江稲荷神社』の東裏側の一角に、クロキィの平屋の家がある。
〔春眠暁を覚えず〕
勲は遅刻の常習犯になる。
家から学校までは徒歩二分、閉められている裏門を登れば一分。気の緩みだ。
実際、洗面所で歯を磨いている時など、午前八時二十五分の〝予鈴〟のチャイムが聞こえる。授業開始は八時半。慌てて洗顔し、身繕いして家を飛び出し、裏門を登り、教室に滑り込んでも五分の遅刻。
自慢ではないが、勲は小学校一年から今の今まで〔皆勤賞〕なんて、貰った覚えが無い。欠席や遅刻の回数は、内申書の中身に、響く。
小学校三年の時から勲は新学期が始まる前、必ず『一日の生活予定表』を作ったものだ。今年の場合は、こうだ。
●午前六時起床→朝の鳩飛ばし
●七時→朝食
●八時→登校
●午後三時半→帰宅
●三時半→今日の復習と宿題
●五時→夕方の鳩飛ばし
●六時→夕食と後片付け
●七時~九時→テレビ
●九時~十時→明日の予習
●十時→入浴
●十一時→就寝
これを画用紙四分の一に円グラフに描き、切り取り、勉強机の左上にセロテープで貼る。
しかし、小学校以来、予定表のスケジュールを守ったためしが無い。
三年になるとクラスの中では早くも、進学組と就職組とに分かれる。
公立中学校なので授業は全員一緒に受ける。しかし、授業態度が違う。
零細の町工場の職工や事務を知り合いのコネで既に決まっている生徒は、勉強に身が入らない。中小企業の会社を目指す生徒は、普通に勉強する。進学組は良く勉強する。進学組の中でも国公立大学や名門私立大学への進学率の高い高校を受験する生徒は、必死で勉強する。
母の臨終の場で医者になることを誓った勲は、必死で勉強しなければならない立場だ。
結局は多くの生徒の思惑通り、村上と坂本が選出された。それでも麻植と多々良は見事、次点だ。その功績の恩恵なのか、ポンタは麻植を保健委員に、多々良は学級会の書記に任命した。
「クロキィ、良かったやないかぁ、保健委員やぞ!」
「何が良かったや、保健委員て検便集めて保健室に持って行くだけの役や」
麻植の面白い見解に勲は、ますます麻植が気に入った。
「代表、麻植彦三郎。副代表、多々良桃代」教室内に異様な呻き声が充満する。
当の本人、麻植と多々良はポカンと口を開け、我ここに在らずといった具合。担任のポンタはというと、狐につままれた様な表情を見せる。開票は進む。
「代表、村上幸信。副代表、坂本明美」拍手が沸く。
村上はクラストップの頭の良い奴、坂本は二年の時『藤田君を真面目にさせる会』の首謀者で副代表経験者。
「代表、麻植彦三郎。副代表、多々良桃代」教室内が、どよめく。
黒板には四人だけの名前が〔正〕印で票数が加算されて行く。
新学期、クラス代表と副代表の選挙が行われた。
代表は男子、副代表は女子、双方共、頭の良い生徒が選ばれる。それでは面白くない。勲は画策した。
十五、六人の生徒に強要して選挙用紙に二人の名前を書かせた。
〔代表 麻植彦三郎 副代表 多々良桃代〕
多々良桃代は、男子生徒から「立ったら、揉もよ!」と冷やかされていた。
この画策を勿論、二人とも知る由も無い。
開票が始まる。
麻植は痩身で色が黒い。右の人差し指の先が内側に曲がっている。一年の体育のバレーボールの授業で突き指して曲がったそうだ。
「クロキィ、今でも指、痛いんか?」
「いいや、もう痛ない。そやけど人差し指がこんな形で曲がってたら、何か泥棒の合図してるみたいやろ?」
発想の面白い奴だ。勲は大いに麻植が気に入った。
麻植は浅黒い。勲は色の黒い麻植に〝黒木〟と渾名を付けた。「クロキィ~」と、勲は訛って呼ぶ。普通なら怒る筈だが麻植は、これもギャグにする。
口の中に空気を溜め、唇の右側から空気を絞り出しながら振動させ「クロキィ~」と、発する。勲は涙を流して笑いこける。
夕暮れの砂場の木の縁に座りながら二人で「クロキィ~」を合唱する。発想の面白い奴だ。勲は大いに麻植が気に入った。
勲は五組。担任はポンタこと森田。どことなく風貌が狸似の五十代後半の教諭で、勲にとっては二年からの持ち上がりで気心は、通じていて何かとやり易い。
有沢は幸代と一緒の一組。本岡は四組で担任は白バイ、岡は六組、美代子は七組、村瀬は十組で担任はマンボ。生活指導が担任にならなくて勲は、ホッとした。
勲は、麻植(おえ)と言う奴と友達になった。麻植彦三郎―。この、時代掛かった氏名が気に入った。いつもそうだが勲は、どことなく面白い点に興味を抱く。今回は名前だった。
勲は校庭で今は解散した『MF倶楽部』の連中と立ち話をしている。皆、倶楽部の在ったことすら今は昔である。中には最高学年になったこと自体を喜ぶ奴も要る。
「三年がおらんようになったから、これからは俺らの天下やなあ!」吉田。
「何が天下や?」ゴンボ。
「三年坊に気兼ねせんで済む言うこっちゃ!」バッタ。
「お前、これまで三年坊に気兼ねしとったんか?」タモン。
「俺は野球部やから、やっぱり先輩はちょっと煙たかったかなあ」村瀬。
「その煙たいキャプテンに藤田は、喧嘩売りよったなあ!」本岡。
「もうええ、一発KO負けや!」藤田。全員が大声で屈託無く、笑った。
七人七様の、そして全校生徒千五百数十人の新学期が動き出した。
春霞が工場地帯にまで流れ込み、校舎一帯を包み込む。
始業式の三日前、各学年の組替えが発表される。廊下の壁に三年一組から十組までの三学年全生徒の氏名が並んだ紙が、貼り出される。廊下は五百数十人の生徒でごった返す。全員が誰と同じクラスになるのか、胸の内には不安と期待が交錯する。
「キャア!」とか、「ウオォ!」とか言った歓喜と溜息が、あちこちで漏れる。しかし、それ以上に気掛かりなのは、担任が誰になるかという事だった。
中学生活最後の一年間を送る上で担任の存在は、大きい。進学する者、就職する者、この一年で進路の方向が決まる。内申書が大きく物を言う。
団塊の世代、進む道の先はいずれにしても〝狭き門〟だ。
ボタンダウンのシャツが欲しい。しかし勲の小遣いは、母の時代から欲しい物がある度に交渉し、ねだり、手に入れるというルールだ。だから当然、貯金などある訳がない。でも、欲しかった。
学生服の下は白のカッターシャツと、校則で定められている。
勲は木綿のシャツを手に工場に入る。魚を刺す矠(やす)を作った、父専用の作業台に着く。
巻き取り紙を三十センチ四方に裂き、台に敷く。その上にシャツの襟を置く。襟先の両端と中央部に小さなミノを順次当て、金槌でミノの底を打つ。襟に三つの小さな裂け目が出来る。
家に戻り、裁縫箱を取り出す。針穴に白糸を通し、穴の周りをかがり縫いし、三つのボタンホールを作る。襟を元の位置に折り、そのボタンホールの位置に三個のボタンを取り付ける。ボタンを三つのボタンホールに嵌めると、ボタンダウンのシャツが出来上がる。
新学期、この手製のボタンダウンのシャツが、校内で流行る。
ファッションへの興味―。
先の『パパ大好き』の男兄弟たちは、ボタンダウンのシャツを着、コットンパンツを穿いている。〔アイビー・ルック〕と言う。
〔アイビー・ルック〕というのは、アメリカ東海岸の名門8大学、アイビーリーグに伝わるファッションのことで、正統派のアメリカントラッド。白いオックスフォードのボタンダウンシャツに、ハーバードのエンブレムが付いたネイビーのブレザーを着る。ネクタイはレジメンタルをキリッと締める。パンツは、オフホワイトのコットンパンツで、靴はスリッポン。
このファッションはニキビ面の青年でさえも、良家のお坊ちゃんに変身させてしまう魔力がある。
60年代は、1958年から続く〔岩戸景気〕で幕を開けた。高度経済成長が進む中、ファッションの世界も一段と広がりを見せて行く。
日本のアイビー・ルック・ブランドの先駆者は【ⅤAN】である。
ファッションデザイナーの石津健介が大阪で設立した会社で、56年からアイビー・ルックを提唱し、59年にアイビースーツを発表。
この頃からアイビー・ルックは瞬く間に若者に拡がり、一時代を築き上げた。
人が門の外を通りすぎる瞬間、勲は門の影から「シィッ!」と、けし掛ける。
「ウー…ウヮン!ウヮン!」
ローリーは小屋に結んだ鎖を引き千切らんばかりに、人に牙を剥いて吠え叫ぶ。近所の人にはせず、近くの工場から退社して帰宅の途に着く、若い男女工員がターゲットだ。勲の身勝手な悪戯心は、消えていない。
春休み、勲はファッションに興味を抱き始める。まだ白黒テレビの時代。外国テレビ映画が主流を占めていた。
勲は『パパ大好き』が、大好きだった。
やもめ暮らしでサラリーマンのパパ(フレッド・マクマレー)を中心にしたホームドラマ。三人の息子と、おじいちゃん、それに犬一匹。良き時代のアメリカの家庭の一端が垣間見られた。 おじいちゃんを除くと、勲の家と全く同じ家族構成だ。
犬は雑種のシェパード〔ローリー〕だ。勲は鳩の訓練を始めた頃、ローリーも調教した。ローリーは、嫁いだ姉が名付け親。シロが死んだ後、姉が何処かから貰ってきた。工場の門の傍にある犬小屋にローリーは、太い鎖で繋がれている。ローリーは面白い。
勲は幼い鳩にやる餌の食パンの残った耳をローリーに与える。耳を千切り、ローリーの口元にそっと下手で投げてやる。ローリーはパクッと見事に口に収める。何回か繰り返し、次に掌に隠し持った小石を投げる。ガキッ!ローリーは嫌な眼をして小石を吐き出す。次にパンを投げる。ローリーは口を噤んだまま、顔を背ける。どこが訓練か。
ローリーにとってみれば、迷惑千万な話だ。こうしてローリーを手下した勲は、次の訓練に移る。
三学期が始まった。
勲は鳩の飼育と勉強に励んだ。期末試験では、それまで学年五百数十人中、百番外にまで成績が下降の一途だった勲は又、五十番台に復帰した。
団塊の世代であるこの時代、授業科目がやたら多かった。国語・算数・理科・社会・英語・保健・体育・技術(女子は家庭科)・美術の九科目。
そんな状況下での高校入試は、マスコミをして〔受験戦争〕と命名された。
この戦争は、大学受験、入社試験、昇進、結婚まで続くのだ。
昭和三十七年は、暮れてゆき、三十八年が明ける。
母の居ない初めての正月。餅は例年通り、町内持ち回りの臼と杵で突いた。もち米を蒸したり、餡餅の餡づくりなどの賄いは嫁いだ姉や近所の主婦連中が手伝った。おせち料理は医者の兄の内山家が届けてくれた。
しかし、年末年始、いつも忙しく立ち回り勲や兄にあれこれ用事の分担を指示し、完璧に仕切る母の姿が無いことに家族全員、虚しさを実感した。
藤田家は、母の存在で成り立っていた。
十一月一日、勲は北区寺町にある藤田家の菩提寺『龍海寺』に、家族より一足早く〝月命日〟の墓参をした。母が亡くなって早や5カ月が経っていた。
境内に入ると真っ直ぐ墓に向かう。供花も線香も数珠も持っていない。愛煙家だった母の吸っていた〔いこい〕を一本、父の煙草入れから失敬した。
木のバケツから水を汲み、杓で墓石の上から水をやる。マッチを擦り、いこいに火を点ける。吹かすだけで咳き込む。いこいを線香立てに刺す。合掌し瞑目する。
「……お母ちゃん、天国で楽しく暮らしていますか?そこには、お母ちゃんの好きな花が一杯咲いていますか?ボクは今、鳩を飼っています。可愛い番は二羽の小鳩を産みました。家族が出来たのです。仲のいい四人家族です。
お父ちゃんと上の兄ちゃん、下の兄ちゃんとボクら四人家族も仲良く暮らしています。お父ちゃんは毎日、たった一人で印刷の仕事に汗して頑張っています。来年、上の兄ちゃんは大学を、下の兄ちゃんは高校を卒業します。ぼくは中学三年になります。
警察に補導されてからは、喧嘩もせず真面目にしています。これからは一生懸命勉強して、お医者さんになります。
お母ちゃんは覚えていますか?あの日の夕方、お母ちゃんの枕元で約束した事を。きっとお医者さんになって、お母ちゃんみたいな病気の人を助けます。お母ちゃんも天国から応援してください。
……最後やけど……もう、お母ちゃんの事を想い出して、メソメソと泣きません!」
呟いている勲の目からは、涙が溢れていた。
嘘を二つついた。印刷業は衰退の一途を辿っていた。喧嘩していた。
勲は、いつものように墓石の後ろに回り、土を掘り、十円玉が有るのを確認して又、元に戻した。
次の日、勲は大きなマスクをして登校した。その格好を見遣りながら生徒達は、ヒソヒソ話を始める。
教室に入り、いつもの席に着く。教室内でもヒソヒソ話が漏れる。勲は鞄から教科書を取り出し、机上に置く。フッと前に目を遣る。そこには勲を振り返った岡の、今にも泣き出しそうな視線があった。勲の鼻骨は腫れ上がり、眼の辺りまで青痣が広がっていた。
勲と棚橋とのトラブルは、校内中の噂になっていた。しかし、勲は何も感じなかった。顔面を一発殴られた瞬間、これまで勲の体内に棲みついていた何者かが天昇し、霧消して行った。
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「コッ!お前ら一体何をしとるんじゃ!」
野球部顧問のマンボが駆け寄る。本岡と村瀬が勲を抱え上げる。学生服の胸の辺りにまで血が飛び散っている。村瀬がユニホームの後ろポケットから、スポーツタオルを取り出し、勲の鼻に当てる。白いタオルは瞬く間に、血に染まる。
見る見るうちに勲の鼻骨に青痣が浮かぶ。悲しくも痛くも無いのに、涙が滲む。こんな醜態を人前で見せたのは、勿論、生まれて初めてだ。その事が悔しい。
事の次第を女子マネージャーがマンボに告げている。
「……そうかぁ……藤田、これで懲りたやろ?しかし棚橋、先に手を出したお前にも責任はある。その点はスポーツマンらしく素直に謝れ!」
「藤田、悪かった。許してくれ!」
マンボの言葉に間髪入れず、棚橋は頭を下げた。その素直さに勲は、心を打たれた。
「いや、ボクの方がくだらん事を口走って悪かった。すんません!」
頭を下げ、右手を差し出す。棚橋はその手に、握手を返した。
日焼けした棚橋の顔がほころぶ。口元の白い八重歯が印象的だ。本岡と村瀬、そして体育館の前に佇む向井の表情が和んだ。
勲は、何かが吹っ切れた晴々とした気持ちで校庭を後にした。
ノックする棚橋の掛け声と、それに呼応する部員たちの掛け声が、深まり行く秋の夕空に谺する。
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棚橋が叫ぶ。「文句があるんなら降りて来い!」
「別に文句なんか、あるかい!女が見てるからいうて、ええかっこすな言うてるんじゃ!」どうして、こんな言葉を発しているのだろうか?
棚橋がバットを投げ捨て、走り出す。勲は廊下を走り、階段を降り校庭に出る。
棚橋が猛然と勲の胴体にタックルをかます。体を九の字にした勲は、そのまま後ずさりして、背中から地面に仰向けに倒れる。棚橋は勲に跨り、右手拳で顔面を殴る。ズンと勲の鼻っ柱に鈍痛が走る。夥しい鼻血がほとばしる。
「先輩、止めて下さい!こいつ俺の親友です。止めて下さい!」
本岡と村瀬は必死に棚橋を羽交い絞めにして、仲裁に入る。二年ながらT中の番町にのし上がっている本岡でも、先輩には逆らえない。小学校時代から勲の子分みたいな存在だった村瀬も同じだ。
鼻血は勲の口の中にも入ってくる。ペッ!勲は鼻血を地面に吐く。
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二階の窓から野球部の練習を眺めている。キャプテンの三年の棚橋が、内外野にノックを繰り返している。
センター方向の体育館の玄関の階段に、セーラー服姿の生徒がひとり座って練習に熱い視線を送っている。テニス部二年の向井だ。向井が棚橋と交際している噂は校内に知れ渡っていた。
棚橋は先の第五ブロック野球大会で優勝したチームのキャプテンだ。向井の視線を意識して、棚橋が粋がっている。
「おーい!棚橋、向井が見てるからいうて、ええかっこすな!」
勲は無意識のうちに棚橋を罵倒していた。ノックバットの手を止めた棚橋が、勲の方に向き直る。鋭い視線だ。
棚橋は校内で一番人気のクラブ、野球部の言わばヒーローだ。その男に向かって勲は、喧嘩を売っているのだ。
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「誰々と誰々が交際を始めた…」
勲の耳にチラホラ噂が入って来た。男女交際の噂だ。勲はそんなことには、無頓着だった。それでも、辻木幸代や安田美代子の名前が無いことに安堵感を覚えた。
男女交際は運動クラブに入っている者同士が多かった。野球部と女子バレーボール部、卓球部と軟式テニス部、柔道部と剣道部といった按配だ。一対一よりも、グループ交際の方が多かった。
勲の目にはカップルで、また男女がグループで下校する様に妙な嫌悪感があった。何故だか判らない。
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勲は中一の時、自慰を覚え、誰彼構わず伝授した。それと同様に、約四カ月間付き合わなかった友人らに鳩を飼うことを、半ば強引に奨めた。
有沢も本岡も村瀬も、あまりの勲の楽しげな話っぷりに釣られて、鳩を飼いだした。一緒に家出させられた浦添や吉田までもが、一羽ではあるが飼い始めた。
伝書鳩ブームがT中学のみならず、近隣の学校にも拡がった。キミコウの愛弟子・勲は鼻高々だった。
しかし、キミコウは勲が訝しい者に見えた。勲は年下の友人をひとり、失った。
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藤田鳩舎の二羽の鳩は、その後の勲の訓練によって半径百メートルの円内の空を飛び回れるようになった。そのえも言えぬ光景を倉庫の屋根のてっぺんに立ち、勲は眺める。
たった二羽だけの飛行だが、勲は大空を自分が独り占めしているかのような快感に浸る。思う存分飛び回った鳩は、工場二階の大屋根で羽根を休め、勲の口笛を聴き、タラップ台に飛び降り、タラップをくぐり、餌をついばむまでになった。
そして番は、勲が心待ちにしていた卵を二個産み、三週間後に雛は孵り、家族は増えた。
勲は父の言った〝ひとつの事〟を成し遂げた。それがたまらなく嬉しく、何か自信も湧いてきた。
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学校とその周りのエリアで日々暮らす今の勲にとって、自然を実感したことがほとんど無い。ところが今、目にした隼と鳩との戦いは自然界そのものの光景だった。弱肉強食。その戦いに鳩は勝ったのだ。その鳩を愛おしく扱うキミコウの姿。こんな小さな空き地とその上空という限られた空間に、自然界を見つけた勲は、一種の清清しさを覚えた。
「キミコウに会わへんかったら、俺は今頃、何をしてたやろ?」
チビで無愛想で年下のキミコウに出会った事で勲の何かが変わろうとしていた。
小学生時代によく遊んだ田圃や畑や野池は、どんどん姿を消してしまった。田圃や畑は整地され、野池は埋め立てられ、住宅や町工場に姿を変えた。地道もコンクリート舗装され、ラムネやべったんをする子供も居なくなった。
二年前の昭和三十五年、年の瀬も迫った十二月二十七日。池田内閣は、国民所得倍増計画を閣議決定した。池田首相の言った「私は嘘は申しません」が、流行語になった。
戦後日本の経済復興、高度経済成長に拍車が掛かった。
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隼は遅れをとっている一羽めがけて、滑空してくる。その鳩はキミコウの言う、リーダーだ。隼にスピードで敵いっこない。隼の急降下直線の圏内から死に物狂いで、ジグザグ降下を繰り返す。
他の鳩は、いつも羽根を休める小川の対岸の大屋根を経由せず、タラップ台に次々と帰還する。リーダー鳩はその様子を確認したかのように、自らの翼を畳み、鳩舎めがけて落ちてくる。タラップ台まで十メートル、このままでは激突してしまう。その瞬間、両翼を思いっきり拡げそこに抵抗を掛ける。急ブレーキだ。ストン!リーダー鳩は、何事も無かったかのように軟着陸した。
川向こうの大屋根の瓦の上で隼は、地団太を踏んでいる。既に鳩舎には九羽が入っている。キミコウは、口笛を吹きながらリーダーを両の手で優しく包んで、胸元に近づける。
「よ~し、よ~し、ようやったなぁお前、流石はリーダーやなぁ」
キミコウは右手でリーダーの喉をさすってやる。勲は感動した。
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「あっ、アカン!隼や!」
突然、隣に座っていたキミコウが立ち上がり、空を見上げて絶叫する。
隼は小型の猛禽類で時速三百キロ以上の速度で飛ぶことの出来る、自然界最速の鳥であり、食物連鎖の頂点に位置している。
キミコウの鳩の群れに向かって隼は、高空から羽根を畳んでまっしぐらに降下してくる。鳩の群れは本能で今起ころうとしている事態を察知する。群れは散り々々ばらばらになって、必死に鳩舎を目指して羽ばたく。
キミコウも必死で口笛を吹き鳴らす。
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放課後、勲はいつものようにキミコウの鳩小屋横の床机に座っている。キミコウの十羽の鳩の群れが、空高く大きな円を描きながら飛んでいる。
「キミコウ、お前初めから十羽も鳩飼うてたんか?」
「いいや、最初は四羽や」
「ほんなら何で十羽に増えてん?」
「『鳩の正しい飼い方』ちゃんと読んでるかぁ?」
「アホかぁ、ちゃんと読んでるわい」 いまだに勲は、アホを連発する。
「番(つがい)が二個の卵産むことは知っとるけどなぁ」
「うちも二つの番が四個卵産んで孵しよったんや」
「ほな合計で八羽やないかい、後の二羽はどないしてん?」
「…〝釣り〟や」
「?釣り、て何や?そんなこと本に書いてないぞ」
「釣り言うんわ、うちの鳩の群れに他所の鳩が迷い込んできよって、そのまま群れに混じって鳩小屋に入ってしまいよるいうことや」
「ふうん、その迷い込む鳩てアホやのう」
「……そやない、うちの鳩の群れのリーダーが他所の鳩の群れに近づいていって、二つの群れを一つにしよるんや。そうしてしばらく一緒に飛んどってからサッと元の群れに戻りよるんや。その時、他所の群れから迷い込む鳩がおるいうことや」
「ほな何かい、わざと他所の鳩を釣って来よるいうことか?」
「そういうこっちゃ」
「そんなこと、どないして教えるんや?」
「それはその鳩の持っとる才能やなぁ」
「キミコウ、お前ほんまに鳩のことよう知ってるなあ、感心するわ!」
「…俺、鳩しか友達おらんからなぁ…」
キミコウは又、表情に暗い影を落とす。
「何言うとんねん、ここに友達おるやないか!」
「…そやけど、藤田、二年生やし、学校で偉そうにしてるしなぁ… 」
「……」
勲は、どう反応していいのか判らなかった。一つだけ判った事は、学校での勲の言動が他人には忌み嫌われているという、事実だった。
このことは、すぐに現実となる。
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『あ・き・す・と・ぜ・ね・こ』という、占い遊びが校内で流行った。
あ=愛してる、き=嫌い、す=好き、と=友達、ぜ=絶交、ね=熱中、こ=恋人。好きな相手との相性を占う。
藤田勲と辻木幸代の場合・・・「ふじたいさお」を五十音で数字にする。
〔ふ〕は、はひふへほの3番目だから〔3〕、〔じ〕は、ざじずぜぞの2番目だから〔2〕、〔た〕は、たちつてとの1番目だから〔1〕、〔い〕は、あいうえおの2番目だから〔2〕、〔さ〕は、さしすせその1番目だから〔1〕、〔お〕は、あいうえおの5番目だから〔5〕。321215となる。
「つじきさちよ」は、322123となる。
双方の共通の数字を×で消す。
お→5
3←よさ→1
2←ち
い→2×
×1←さた→1×
×2←きじ→2×
×2←じふ→3×
×3←つ
勲は、1と5が残る。足すと6。あ・き・す・と・ぜ・ね・この6番目なので〔ね〕=熱中。
幸代は、2と3が残る。足すと5。あ・き・す・と・ぜ・ね・この5番目なので〔ぜ〕=絶交。
相性占いでは勲が幸代に熱中なのに、幸代は勲に絶交、となる。
休み時間、授業中を問わず大多数の生徒が相性占いに嵌った。そして、その結果に一喜一憂した。
勲は念のため、弁論大会で優勝した安田美代子と、最近教室内で視線の合う岡弘子との相性も診た。安田が〔好き〕で勲が〔嫌い〕、岡が〔好き〕で勲が〔熱中〕と出た。
勲は前の席の岡の背中をじっと、見つめた。
この頃から二・三年生の間で男女交際というのが目立ち始めた。十四~十五歳、思春期の入り口だ。
晩秋の足音が近づきだした校内で“恋愛ごっこ”の芽生えだ。
勲には係わり無いことだ。
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「こんな時、キミコウやったら、どないしよるんやろか?」
秋の陽はつるべ落とし。もうすぐ陽は沈む。
「そうや、口笛や!ピーポーピー!ピーポーピー!」
祈る気持ちで勲は口笛を吹き続ける。
夕陽に染まりかけた羽白の体の亜麻色が光る。
こうなれば『鳩の正しい飼い方』にあった、鳩の帰巣本能に頼る以外ない。
「ピーポーピー!ピーポーピー!」
羽白の視線が一瞬、勲に向けられた。その刹那、羽白は一直線に降下を始めタラップ台に着地した。そして勢いよくタラップをくぐり、餌をついばんだ。
「やったぁ、やったぁ!」
勲の目に歓喜の涙が溢れた。羽白を灰が愛おしそうに迎え、傍に寄り添っている。
「つ、つ、番になりよった!」
幼い雄と雌とはいえ、気心が通じないといくら一緒に居ても、番になるとは限らない。二羽は互いに首をこすり合わせている。
「これが、家族なんや…」
勲は、囁いた。白い鳩舎に夕陽が差し込んでいた。
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「ええかぁ?あれがお前らの家やでぇ。大邸宅やろ。白うてかっこええやろ?」
二羽の鳩は目をパチクリさせている。
「今日は朝飯抜きやから、腹減ったやろ?よう見てみい、あのタラップ台の向こう側になあ、餌があるんや!見えるか?よ~し、ほんなら晩御飯といくかぁ」
勲はトタン屋根を下り、タラップ台の前に行く。畳、半畳分の台の一番外側に二羽をそっと置く。タラップまでの距離は九十センチ。勲には遠く感じた。
「ピーポーピー」
口笛を吹く。灰は一目散にタラップをくぐり、餌をついばんだ。
「よ~し!お前は偉い!」
勲は思わず叫んだ。と同時に羽白は、バタッと羽音を残し鳩舎の屋根に飛んだ。
「……」
勲は声も出ない。
傾斜した屋根のトタン板の上を羽白が爪音を立てて、徘徊する。
「…おい、お前、早よ家に入らんかい。相棒が待ってるやないか…」
勲は、焦った。飼い始めて初めて鳩を外に出した。きっと羽白は下界を楽しんでいるのだ。勲は都合のいい解釈をした。意は通じなかった。羽白は勢いよく、飛び立った。
「おい、どこ行くんや!」
勲の叫びを無視し、羽白は低空を旋回し、工場の東棟の事務所と職人の宿舎となっていた、二階の大屋根に飛び降りた。
「どないしょ… 」
心細くなってきた。
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次の段階は鳩をタラップ台に乗せ、タラップをくぐらせて鳩舎内に入らせる訓練だ。
タラップを挟んで鳩舎内にも奥行き三十センチの台が設えてある。つまり鳩は歩いてタラップをくぐれる。
勲は朝夕二回の餌やりをこの日、朝抜きにしてある。
学校から帰宅し、すぐに鳩舎に出る。キミコウがやっていた餌やり時間の口笛。勲、オリジナル。
「ピーポーピー!」
口笛に二羽の鳩も反応するようになっていた。ドアを開け、蓋をした木の餌箱から餌を一握りし、タラップの内側の台にばら撒く。二羽の鳩は今、中段の巣箱をねぐらにしている。勲は二羽を両手で摑み、外に出る。倉庫の屋根のてっぺんに座る。鳩に鳩舎の周りの景色を覚えさせる。
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勲は鳩の飼育に没頭した。
キミコウの手ほどきと『鳩の正しい飼い方』の本と首っ引きで番を育てた。
子供の鳩は自分で餌が食べられない。餌はトウモロコシを主に玄米、麻、蕎麦、オノミなど穀物の実を混ぜ合わせたもの。特にトウモロコシは、甘くて水分タップリで鳩の主食だ。しかし子供の鳩には食べさせられない。下痢をしてしまうのだ。
勲は食パンの耳を取り柔らかい部分だけを細かく千切り、茶碗に入れた牛乳につける。上の兄がメジロに餌をやるのと同じように、鳩を掌で抱きかかえる。
そして勲は親鳩がするように、牛乳につけた食パンを自分の口に含み、子供の鳩の嘴を開け口移しで餌をやる。自分が親になった気分だ。
こうして二羽の鳩は、鳩舎の中で羽ばたけるまでに成長した。
成長するにつれ雄の羽白の胴体から首の部分が変色し始める。鮮やかな亜麻色だ。鼻こぶも白くなる。雌の灰は、手羽先に黒い羽根と首の辺りに黒の斑点模様が現れた。
勲は鳩が可愛くて愛おしくて、しょうがなかった。
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二学期のテストも終わった。この頃、勲は胸の痛みを覚える。
勲は一年の時からいつも教室の一番後ろの左窓側の席を勝手に指定席にしてきた。勲の席の右の列の前から三番目の席に『藤田君を真面目にさせる会』メンバーで、以前勲の家の家事の手伝い来ていた岡が座っている。
授業中、それとなく勲が黒板の方に目を向ける。そして、目を元に戻そうとする。その視線の動きの途中に、後ろの勲を見遣る岡の視線がある。
初めのうちは何も勲は感じなかった。それが回を重ねるごとに岡の視線を意識するようになる。そして今、岡と勲の視線が交わる。
岡は痩せっぽちで顔も小さい。一寸浅黒い顔の瞳は、丸くて大きい。その目が勲に向く。途端に勲の胸に動悸が走る。
「…これて、なんや!」
こんな胸騒ぎをしたのは、勿論、初体験だ。
小学四年の時、副級長の操の目を見た時も、中学に入って幸代の目を見た時も、ましてや家出し幸代の家に行った時すら、こんな体験をした覚えが無い。おまけに『藤田君を真面目にさせる会』のメンバーを勲は、無視こそすれ好意を持ったことは無い。
「…一体、どうなってるんや?」
勲は、自問自答した。
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「な、な、何や!この鳩小屋は!」
勲の鳩舎を初めて目にしたキミコウは、絶叫する。
「キミコウ、臭っさあ!言うたら、しばくぞぅ」
笑いながら勲はキミコウを見遣る。キミコウは鳩舎の周りを丹念に点検し、ドアを開けて中に入る。
「広いし、ごっつい明るいなあ!おっ、止まり木付きかぁ…それに巣箱が十個。タラップもようけ付いてて…凄いなぁ!」
ドアを開けて出てきたキミコウの表情には、少し影があった。
「…藤田とこ、金持ちやさかいなぁ…」
「何言うとんねん、お父ちゃんの古い友達の材木屋が、原価で材木売ってくれたさかいに、そんなに金、かかってないんや!」
「…そうかぁ、俺なんかただで作ったさかいになぁ…」
慰めの言葉も出なかった。
キミコウに鳩の持ち方から、子供の鳩の餌と水のやり方、羽根の裏に付く羽虫の取り方、鳩舎の掃除のし方、夜はタラップの戸を閉めること等、初心者の勲に事細かい飼育方法をキミコウは教えた。
まだ飛べない二羽の幼い鳩の番は、広すぎる鳩舎の中の床の巣箱に、肩を寄せ合い初夜を迎えた。
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この日まで勲はキミコウに鳩舎は見せていない。
キミコウの設計図とセメント付きの杉板が父の意向で没になった事を告げた時、キミコウは憮然として「臭っさあ!」と叫んだ。
キミコウは、この言葉を〔何じゃ〕とか〔しょうもなあ〕とか〔アホかぁ〕と言う意味に多用する。
「何が『臭っさあ!』じゃ!キミコウ、舐めとったら承知せんぞ!」勲は、怒った。
キミコウは情けなそうな顔をして、俯いた。
T中学で勲の存在を知らないものは誰も居ない。しかし、次の瞬間、勲は謝った。
「すまん、キミコウ、俺が悪かった。せっかくお前が色々と面倒見てくれたのに怒鳴ったりして。堪忍してくれ、このとおりや」
勲は素直に頭を下げた。こんな事は初めてだった。
友達が出来ず、鳩だけがキミコウの心の友。友達は沢山居るが、いつも自分中心に行動してきた勲。そんなキミコウに突然、一方的に近付き、鳩を飼う術を伝授してもらった。勲は心底、キミコウに詫びた。
この年ごろの少年は、友達を次々に換えて付き合いながら、人を見る眼や考え方の違いを学習して成長するものだ。
勲にとってのキミコウは、良い学習効果に繋がった。
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F市の北口商店街を西にはずれた住宅地にある今井鳥獣店。浦添と秋山が奈良のG駅近くの団地でカナリアの入った籠ごと盗み、売り飛ばした店だ。
勲はキミコウを伴って店内に入った。鳩を飼うことにズブの素人の勲にとって、キミコウは師匠だ。
店内の金網の中には、所狭しと鳩が、ぽっぽろう、ぽっぽろうと鳴いている。キミコウは黙ったまま鳩を見つめ、蟹のように足を横に移動して行く。一瞬、歩を止める。真剣な眼差し。
「……藤田、これがええわ!」
キミコウが指差したのは、鼻こぶがまだピンク色の二羽。
「これて、まだ子供とちゃうんか?」
眼と嘴の間の両側に、鼻こぶはある。幼鳥の時の色はピンクで成鳥になると、白くなる。
「子供のほうが飼い易いし、訓練もし易いんや」
師匠には、逆らえない。
二羽の番はキミコウら愛鳩家が言う〝羽ジロ〟と〝灰〟。羽ジロは、手羽白のことで手羽先の部分が白。灰は一番ポピュラーな灰色。
一羽二百五十円で勲は鳩を自分のものにした。キミコウが持参した鳩専用の籠―レースなどで鳩を移動する時に入れる籠―に二羽を入れ、自転車で藤田鳩舎に戻る。
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鳩舎の中に巣箱、止まり木を設え、タラップを取り付け、南側の大きな窓に日光が射し込むための金網を張る。そして、北側にはドアを作り、外側全体に杉板を打ち付けて行く。
前後に傾斜した屋根にトタンを張る。最後は東側に畳、半畳分もある大きなタラップ台を取り付ける。父との二人三脚で鳩舎は、一週間で完成した。
鳩舎の中は杉板の匂いが立ち込め、人一人が寝っ転がってもまだ、余裕のある広さだ。
ここで終わらないのが父らしい。木の腐食を防ぐため、仕上げとして白ペンキを塗ってくれた。おまけに、ドアの上に黒マジックインキで『藤田鳩舎』と、書き入れた。
その日の夜、完璧な鳩舎の雄姿を勲は、倉庫の屋根のてっぺんに座り、時を忘れ眺めた。
北の夜空には、今夜もポラリスがいつも以上に眩しく、輝いていた。
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あの日から父が鳩舎の骨組み作りを手伝ってくれ、三日で完成した。手伝ってくれたと言うよりは、殆んど父が作ったようなものだった。
夜は九時で小屋作りは終わる。父が棟梁で勲が小僧だ。勲が登校し、帰宅すると骨組みは次々と形を整えて行く。
日曜日、藤田家の男四人の手で鳩舎の骨組みは倉庫から出され、工場の門を出て表に…。
兄二人は家に入り、二階に行き、階段横の戸口を出、中二階に設えられた板張りの通路を伝い、物干し台に出る。そこから倉庫のトタン屋根に移り、道路側に行く。
トタン屋根の端にはまだ、大阪大空襲の時に落とされた焼夷弾の痕が残っている。
上の兄がボーイスカウトで使っていた太いロープを物干し台の柱に、舫う。そして一方のロープの端を下に投げる。道端にいる父がロープを拾い、器用な手付きで瞬く間に鳩舎の骨組みに結び付ける。
「よっしゃ、オーケーやでぇ!」
父が屋根の上の二人の兄に、合図を送る。
「せーのう!」の掛け声で兄たちが、ロープを引き上げる。二人の息はピッタリだ。
横の父を見ると、屋根を見上げ、何となく誇らしげな笑みをこぼしている。
「これが、家族なんや…」勲の顔もほころんだ。
作業を見守る近所の人達は、興味津々。
かくして、鳩舎の骨組みは物干し台と倉庫の屋根との間に着地した。これからは物干し台が作業場となる。
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兄の垂木を削るノミの音、勲が垂木を切るノコギリの音が倉庫内に響き渡る。
開きっ放しの倉庫の入り口から、父が姿を見せる。
「どうや?はかどってるかあ…何や勲、兄ちゃんに手伝うてもろてるんか」
「……ボク一人では出来ひんから、兄ちゃんに頼んで手伝うてもろてんねん!」
兄が勲を見遣って、頷く。
「そうかぁ…どれどれ…やっぱり兄ちゃんやなぁ、うまいこと溝掘ってるやないかぁ」
やはり父は怒らなかった。
「これが家族なんや…」
勲は先ほど兄の言ったことの意味を、初めて理解した。
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着替えた兄は設計図を見遣り、ノミを道具箱から取り出す。
「兄ちゃん、どうすんのん?」
「任しとけ!この×の部分は勲には無理や。ノミなんか使うたこと無いやろ?」
「うん」
「ここだけ手伝うたる…」
「ア、アカン!人に手伝うてもろたら、お父ちゃんに怒られるぅ」
「あのなぁ勲、上の兄ちゃんもお父さんも、お前が年下の公也に頼る事を怒ってはるんや。外で偉そうな立ち振る舞いしてるお前が、都合のええことだけ人に頼る、今回は年下の公也や。お前、男として恥ずかしないんか!」
鳩を飼うことで上の兄、そして父、今は下の兄に叱られている。
「こんな事やったら、鳩なんか飼いたないわぁ…」
勲の心に又、拗ねる気持ちが湧き立つ。
「勲、お前もっと素直にならなアカンぞ。お母ちゃんが生きてたら同じように、お前を諭しはるはずや。いつまでも、子供やないんやからなあ。お前一人で出来ひんねんやったら、俺や上の兄ちゃん、ほんでお父さんに頼んで手伝うてもろたらええやないか。それが、家族や!」
勲はぐうの音も出ない。末っ子ということで、お母ちゃんっ子だった勲。その最愛の母を亡くし、これまでの小さな人生で初めて味わった悲しみ、切なさ、挫折感。二人の兄と父は勲を母代わりに躾け、育てることをそれぞれが実感していたに違いない。
勲はまだ十四歳なのだ。
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フウ~ッ!深い溜め息が自然に出る。しかし、誰にも頼らず勲一人で作らなくてはならない。まず、中央に嵌める垂木の寸法を測り、切る。嵌め込もうとすると、少し長い。金槌で叩き無理やり嵌める。入るには入ったが、四方の角に打った釘が軋む。長方形が変形する。
クソッ!腹が立つと言うよりも、自分の不器用さが情けない。金槌で垂木を叩き落とす。痛っ!落ちた垂木が、勲の運動靴の先をしこたま打つ。
「…もう、止めや!」
―小学校五・六年の担任、ライオンこと杉山龍馬が通信簿の〝学習上の所見〟で指摘した『今ひとつ集中力と根気が長続きしない』―
その指摘通り、勲は育っている。ふて腐れて倉庫の床にしゃがみ込む。
「ただいま~おう勲、うまいこと行ってるかぁ?」
下の兄が帰宅した。
「何や、まだここまでしか出来てへんのか?」
「…そやかて、設計図どうりに行かへんねん」
「見してみぃ…」
父の設計図を手に取り、兄が思案している。
「そうかぁ、やっぱり勲には無理やなぁ」
嫌なことを言う。
「よっしゃ、制服着替えてくるから一寸待っとり」
そう言って兄は、倉庫を出て行く。
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だが、これからが問題だ。キミコウがせっかく書いてくれた設計図は没。工事現場で手に入れた杉板も没。使えるのは盗んだ垂木だけ。しかし、この事はキミコウを説得する自信は、勲にはある。大問題は勲が一人で鳩舎を作ることだ。
口は立つが、なにしろ不器用だ。小屋の骨組みに使う垂木をノコギリで切るにも、切断面は歪む。切断面が直角でないと、釘を打っても隙間が出来、垂木同士の接合が緩む。父は鉋で面を平らに削ればいいと言うが、ノコギリより使い方が難しい。
とにかく小屋の底の部分、縦二メートル、横三メートルの長方形を作る。しかし、四本の垂木だけでは底の強度は弱い。父の設計図を見ると三メートルの中間、一・五メートルの箇所に垂木を一本入れ、両側に出来た二つの長方形に×型の垂木をはめ込み強度を増す。こんな技、勲には無い。
×が交差する部分には、ノミで溝を掘らなければならない。勲には、不可能に近い高度な技術だ。
「キミコウやったら、朝飯前やろうなぁ…」
設計図がスパイの使う暗号のように見えてくる。
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父は鳩舎の設計図を作り直した。
キミコウの五倍もある大きさだ。おまけに屋根はトタン張りで前後に傾斜まで付いている。タラップ台も畳、半畳分もある。
鳩舎の右側には人一人が屈んで入れるドアまで付いている。中には五十センチ四方の巣箱が十個、天井から吊るした止まり木、タラップは二十対。
前面と左側には日光が充分取り入れられる、金網が施される。流石は写真の現像室を一人で建てた父の設計だ。
盗んだ垂木の事は勿論、内緒にしていたが、父の設計では垂木は足らない。そして、セメント付きの杉板はやめて新しいものにすると言う。あの材木屋に注文して、盗んだことなどに話が及びはしないかと勲は危惧した。
しかし、父の古くからの知り合いの材木屋に注文することになり、勲はホッとした。
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「勲、泣いてええんやでぇ。お前が毎晩、お父ちゃんの横で寝てる時、必死に声を殺して泣いてること、お父ちゃんは知ってるんやでぇ…」
一瞬の間が倉庫内に漂う。
「お、お、お父ちゃん!」
勲は父の胸に飛び込んだ。
「お父ちゃん、ボク寂しいねん!そやけどお父ちゃんの前で泣いたら、お父ちゃんに悪い思うて泣かれへんかったんや!そ、それに、お母ちゃんを早死にさせたんはボクのせいなんや!」
震えて勲は、号泣した。父は優しく勲の肩を抱きながら呟く。
「そんな事あらへん、お前のせいでも誰のせいでも無い。あれは、お母ちゃんの…寿命やったんや…」
勲は、初めて父の前で思いっきり泣くことが出来た。
母が死んで以来、勲は心の片隅でこの日を待っていたのかも知れない。父の作業服の油とインキの匂いが、そっと勲を包んでくれた。
何となく、悲しみの〝第一章〟が終わったように、勲は感じた。
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「ふ~ん、よう出来てるなぁ…」
「そらそや、キミコウは自分一人で鳩小屋作ったんやもん!」
「…ほな、勲も自分一人で作らんかい!」
父の厳しい視線が勲を刺す。こんな父の厳しい表情を見たのは、生まれて初めてだった。
「ええか勲、お前が鳩飼う言うた時、上の兄ちゃんが『人に頼ってどうすんねん。自分が責任持って飼わなアカン!』言うて反対したやろ?その通りや。お父ちゃんが鳩飼うことに賛成したんは、鳩と友達になる楽しさと、お前が一人で物事を成し遂げるのを見たかったからや。お母ちゃんが死んでもう四カ月や。お前が寂しい思いをしてるんは、お父ちゃん百も承知や。しかしなあ勲、寂しいのはお前だけやない!兄ちゃんらもそうやし……お父ちゃんかて、寂しい…」
何も言えなかった。涙が溢れそうになり、勲は必死で堪えた。
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次の日から藤田印刷の倉庫で勲とキミコウは、鳩舎作りに取り掛かった。
初日はキミコウの指導で骨組みをあらかた完成させた。キミコウが帰った後、勲は骨組みを眺めながら鳩舎の完成の日に、思いを馳せる。
「ほう、骨組みもほぼ出来たんやなぁ」
仕事を終えた父が倉庫に入ってくる。
「…うん!明日からは、床に板張るんや!」
勲は得意げに頬笑む。
「……勲、この杉板を張るんか?」
倉庫の床に並べられた、セメントの付いた板を見て父が聞く。
「うん!セメント付いてるけど、へっちゃらや!」
「勲、鳩何羽飼うつもりや?」
「二羽の番(つがい)」
「…番やったら、卵も産むやろ?…これ、設計図かぁ?」
「そうや、キミコウが作ってくれたんや」
父は設計図に目を落とし、じっと見つめている。
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翌日、キミコウは溝工事の現場を探し当てた。
放課後、連れ立って工事現場に行き、現場監督に事の次第を話し、杉板を手に入れた。勲の家の倉庫に材料を一旦置き、午後八時にキミコウの鳩小屋で落ち合った。
「キミコウ、これから何処へ行くんや?」
「…任しとき!」
勲が通った小学校の東に平野川がある。その川を南に百メートル程の川べりに、材木屋がある。勲も以前からその存在は知っていた。
人通りの少ない材木屋の前に着いた途端、キミコウは、道端に置かれた垂木の一束を持ち上げる。その目は勲に「早よせい!」と促している。反論している暇など無い。
一方の端を勲が持ち上げた瞬間、キミコウはもう、歩き出している。
「しかし、重たいなぁ…材木屋のおっちゃん、子供にこんな仕事さすんは一寸、酷やでぇ…」
人とすれ違う度にキミコウは、後ろの勲を見遣って不平を漏らす。大した演技と度胸だ。勲は、悪い事とは知りながらキミコウの行状に、舌を巻いた。
金網とタラップは、父が買ってくれた。
こうして勲の鳩舎作りの材料は、全て整った。
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キミコウの説明は、こうだ。
この頃の便所は殆んどが、汲み取り式だった。高度経済成長下の日本は、先進国の仲間入りの政策を推進していた。そのひとつが都市部の水洗トイレ化である。
H区に限らず近隣の町では水洗化のための下水道工事が、そこここで行われていた。地道を掘り、下水道管を埋める工事。下水道管と各家庭の水道管を繋ぐための溝工事。この溝工事の際、セメントの型を取るために杉板を用いる。
セメントが固まると杉板は外され捨てられる。板の面にはセメントが少し残るが、鳩小屋の材料には何の支障も無い。この廃材を貰うのだ。だから、ただで済む。
「キミコウ、お前なかなか頭ええなあ。そやけど垂木はどないすんねん?」
「…任しとき!」
こうなれば、全てキミコウ任せだ。
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勲の鳩舎作りがスタートした。
放課後はキミコウの鳩小屋横の床机が作戦本部となる。キミコウは自分一人で鳩舎を作った。チビで無愛想だが、キミコウは喜び勇んで勲をサポートする。
鳩舎の設計図もキミコウが作成した。別紙には材料一覧表まである。小屋の骨組みとなる垂木の数、屋根と床と周り、中に作る巣箱に使う板の枚数、日光を取り入れるための金網の寸法、タラップの本数と、完璧な一覧表だ。
「…キミコウ、こんだけの材料揃えるのんに、なんぼ程かかるんや?」
「…ただや!」
「ただて、一銭も要らんと言うことかぁ?」
「そうに決まってるやん。俺の鳩小屋も全部ただで作ったんや!」
「そやかて、どないして材料を調達するんや?」
「工事現場に行くんや」
「工事現場?」
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何事にも凝り性の兄は、メジロに芸を教え込んだ。
神社の祭りの時などに〝メジロのくじ占い〟という店が出る。
鳥遣いが籠の出入り口を開ける。細い指揮棒のような物を使い、メジロを操る。
メジロは出入り口からピョコピョコと出てくる。そして、小さな止まり木が梯子を寝かせたようになった橋を渡って行く。
その先には小さな模型の社殿があり、メジロは嘴で扉を開き中に置いてある、棒状に巻かれたおみくじを一つ銜えて戻ってくる。
おみくじは三十円払った客が差し出した片掌に、落とす。物見客から拍手が起こる。仕事を終えたメジロは、何事もなかったかの如く籠に入る。
模型の社殿とおみくじこそ無いが、兄は餌をその場所に置く。
兄のメジロはプロのメジロの所作で、ピョコピョコと橋を渡り、餌の入った猪口の前に行き、餌をついばむ。
そしてピョコンとジャンプして体を百八十度回転させ、ピョコピョコと籠に戻る。
上の兄は勲が人に頼って鳩を飼う、その姿勢に反対した。
「…まあ、ええがな。勲は家の用事もようしてくれるし、生き物を飼う責任を理解するのは、ええこっちゃ」
常に穏やかで優しい父に、勲は感謝した。
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今は〔ローリー〕という、四つ目のシェパードを飼っている。
四つ目というのは、両目の上に、同じ大きさの焦げ茶色の斑点模様があるから、そう呼ぶ。つまり、シェパードの雑種だ。
「大丈夫や、キミコウが鳩の飼い方を教えてくれよるんや!」
「人に頼ってどうすんねん。自分が責任持って飼わなアカン!」
確かにそうだ。上の兄は父に似て、何かにつけて器用だった。
今、メジロを飼っている。
鳥類の分類では、スズメ目メジロ科。スズメと同じ位の大きさだが、色はオリーブがかった緑色で特徴はその名の様に、目の周りに白いアイリングがある。
勲の家から真東彼方の生駒山に分け入って兄は、霞という小鳥を捕まえる細かい糸で作られた網を仕掛けて、メジロの子供を捕獲した。
メジロを飼う竹製の鳥籠は、祖父が生前ウグイスを飼っていた物だ。兄は祖父に可愛がられ、ウグイスの飼育を手伝った。だから小鳥の飼い方は手馴れたもの。
餌は兄独自に粟などの穀物を何種類か混ぜ合わせた特製。
餌やりは、籠から出したメジロを左掌で包むように摑み、親指と人差し指で左右から嘴を開ける。右手には嘴に入る位の竹のヘラ―勿論、兄の手製―の先に餌を乗せ、そっと嘴の中に入れてやる。
実に愛情細やかに兄はメジロを育てた。
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学校が終わると脇目もふらず、一目散に家に走って帰った。
犬小屋の前の筵は片付けられ、四匹の子犬の姿は無かった。
「お母ちゃん!お母ちゃん!子犬、どないしたん?」
工場に駆け込み、輪転機の傍で作業する母を質した。
「シロだけでも、勲一人で面倒よう見んのに、あと四匹も増えてどうも出来ひんやろ」
「…お母ちゃんのウソつき!ボク、探しにいってくる!」
勲は近所の田圃や畑、空き地を隈なく捜し歩いた。でも、子犬たちはどこにも居なかった。
母は捨てたのではない、出入りの魚屋に引き取ってもらったのだ。勲は夕食もとらずに、シロの前で泣き続けた。
一年中、皮のハンチング帽を被り、七分袖のラクダ色の木綿の肌着に同系色の腹巻、ナッパズボンに地下足袋姿の魚屋の親父。
年中、酒臭い息を吐く〝安兵衛のおっちゃん〟と母が呼ぶこの親父を勲は、忌み嫌うようになった。
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「お父ちゃん、ひとつお願いがあるねん」
村上給食の味噌汁を温め、おかずの海老フライを〝海老フライ丼〟にして四人分を卓袱台に乗せる。
「急にお願いて、なんや?」
海老フライ丼を頬張りながら、父が聞き返す。
「あんなあ、ボク、鳩飼いたいねん!」
「お前に飼えるかあ?」
上の兄が言う。
「何で?」
「お前、犬以外に生き物飼うたこと無いやろ?」
勲の家には以前〔シロ〕という雑種の犬がいた。勲が世話をしていた。
白い毛は長く、少しカールし、顔の右目の辺りだけ黒い毛が丸型模様になっていて、可愛かった。そのシロが四匹の子犬を産んだ。
勲は印刷の巻き取り紙を包む筵(むしろ)を鎌で五十センチ四方に切り、工場の門の左に父が作った犬小屋の前に敷き、子犬のねぐらを作ってやった。
「お母ちゃん、絶対に人にやったらいややでぇ!」
と、言い残して学校に行った。小学二年生の春だった。
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「キミコウ、鳩飼うのんは難しいんか?」
「…藤田…鳩飼うんか?ほんまに飼うんか?」
キミコウは満面に笑みを浮かべた。
「飼うんやったら俺、何でも教えるし、何でも手伝う!」
いつも鳩だけを相手にして友達の居ないキミコウは、突然の勲の出現に心躍る思いだったのだろう。
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「キミコウ、えらい変な口笛吹いてるやないか?」
「…藤、田…」 キミコウは年上にも、さん、とか、君を付けない無愛想な奴だ。だからあまり友達は居ない。しかし勲は、小柄なキミコウが弟のように思えて、腹も立たない。
「その口笛、何や?」
「これはなあ、鳩を小屋に戻す合図なんや」
「鳩にそんなことが判るんか?」
「訓練や」
「どないして、訓練すんねん?」
「毎日、鳩を放すやろ、鳩が空飛びまわって、あそこの屋根に停まるんや」
「ふん、ふん…」
「ほんだら、俺があみだした口笛吹くんや」
「ほんで、ほんで?」
「最初のうちは、鳩変な顔して辺りをキョロキョロ見回しよるんや」
「鳩の変な顔、お前判るんか?」
「経験や」
「ほう、それからどないすんねん?」
「口笛吹きながら、鳩がこっち見よった時に、この餌をタラップ台に撒くんや」
キミコウは実践する。
空き地の北には東西に小川が流れる。向こう岸の二階建ての家の大屋根に停まっていた鳩が、一羽、一羽、又一羽とタラップ台に舞い降りてくる。そしてタラップ台の餌をついばんだ後、タラップをくぐって小屋に入っていく。
勲は感動を覚えた。伝書鳩のことは知ってはいたが、いま目の前で見た光景は驚きだ。
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勲は、有沢や本岡や村瀬といった同級生と交わることから逃避した。
有沢農機の従業員寮の北側に小さな空き地がある。空き地の西に四軒並びの長屋が建つ。その北端に今田という家がある。そこの五人兄妹の末っ子、公也はT中学の一年坊主。勲たち近所の連中は公也のことを〝キミコウ〟と呼んでいた。
キミコウは空き地の南、有沢農機の寮の塀の外側に小さな鳩小屋を作り、十羽の鳩を飼っていた。鳩小屋の横の床机に座り、キミコウは変な口笛を吹きながら、掌に乗せた餌を鳩小屋のタラップ台に少しずつ撒く。
タラップとは鳩小屋に付ける器具のことで、長さ十五センチの細いアルミ棒が二本、幅五センチの間隔で一対になったもの。上部のアルミ板には二個の穴が空いていて、その穴に釘を打つ。アルミ棒は前後に動く。
キミコウの小屋には、それを一〇対横並びにしてタラップ台の内側、小屋の中に取り付けてある。タラップ台に降り立った鳩は、タラップをくぐり小屋に入る。小屋の方からタラップは開かない。
キミコウの横に勲は座る。
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勲は、バズの呟く科白に強い影響を受ける。
母が亡くなってから勲は、大学ノートにパイロット万年筆のロイヤルブルーのインクで思いのたけを書きなぐる。
「人生って何だ?この世の中で人間が生きてゆくことらしい。されど、そのことに何の意味があろうか?」
「虚しい心を誰に告げればいいのか?父か?母の墓前か?友か?なれど、俺に心の友が果たして居るのか?言わんや、女に告げられるものか!」
「何事にも表と裏があると言う。果たして、その二面だけしか存在しないのだろうか?表と裏の側面には、薄くても厚みがある。俺はそんな存在でありたい」
大人びた下手な続け字でノートの余白を埋める。バズの人生の襞(ひだ)を知った科白とは、雲泥の差だ。
十四歳の少年に人生経験やボキャブラリーは少ない。しかし勲にとって、この行為は身勝手な現実逃避となる。その一方で現実の時の流れは、確実に規則正しく進む。
そんな日々に変化が起こる。
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裕福な家庭で育ったトッド・スタイルス(マーティン・ミルナー)と、貧困層が暮らす下町育ちのバズ・マードック(ジョージ・マハリス)の対極の若者が繰り広げる青春グラフィティ。
勲は、ジョージ・マハリス演じるバズ・マードックの大ファンだ。
アイルランド系の顔立ちもさることながら、バズの生きざまや哲学的に世間の事象を見、それを散文詩的な科白で呟く。
ルート66をトッド・スタイルスの愛車、シボレー・コルベットのオープンカーに乗った男二人の旅。
立ち寄る町々で様々な臨時雇いの仕事に就く。そこで繰り広げられる、悲喜こもごもの人生模様。古くからの町の因習、人種差別、職場でのトラブル、恋―。
ルート66を縦軸にし、点在する町での出来事を枝葉にし、二人の青年の人生のひとコマひとコマを綴っていく。
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「愛憎って、虎と痩せっぽちの少年のようなものさ。いくらドアに鍵を掛けたって、虎はドアを打ち破って狙った獲物を仕留める。憎しみって、そんなもんさ。
痩せっぽちの少年を冬、外に出してみろ。すぐに風邪をひいてしまう。愛なんてそんなものさ、トッド… 」
「バズ、君はどうして物事をそんなに単純に決め付けてしまうんだ。憎しみも愛も、もっと複雑に絡み合うものだよ」
この年、一九六二年四月から外国テレビ映画『ルート66』の放送が始まった。
ルート66は、アメリカ大陸のロサンジェルスとシカゴをほぼ一直線で結ぶハイウェイ。
このテレビ映画は白黒テレビ時代の人気番組のひとつで、勲の母の好きな番組だった。母の好きなものは、勲も好きだ。
二人の若者がシカゴからロサンジェルスまでドライブしながら、途中の町々で喜怒哀楽の物語を展開する。
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体育教諭のマンボがいきなり朝礼台に駆け上がる。
「皆、聞いてくれ!今、野球部の選手が戻ってきた。今日の第五ブロック大会で見事、優勝した!」
テント内の放送席で放送部の生徒が〝君が代行進曲〟のレコードをかける。
行進曲に合わせて入場門から優勝旗を手にした三年キャプテンの棚橋を先頭に、部員達が行進してくる。
その後ろに続くのは、優勝トロフィーを持った長身のエース佐藤、優勝盾を持ったキャッチャーの本岡。二年生ながらこのバッテリーが優勝の原動力になったのだ。
後方に誇らしげな笑みを浮かべて、村瀬が続く。生徒全員が大きな拍手を選手たちに浴びせかける。
完敗だった。
『MF倶楽部』は勲が解散させた。そのメンバーだった本岡と村瀬の二人が今、ヒーローになっている。
母を失い、自分も見失い、ただ学校生活を送っている勲。恥ずかしさと、惨めさと、悔しさと、言いようの無い虚脱感に襲われている。
茫然自失。死にたくなった。
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秋がいつの間にか深まり、運動会を迎えた。
各学年のクラス対抗の競技が繰り広げられる。二年のトップは、幸代や美代子の居る九組だ。勲の五組は四位。
最後の競技は十クラス対抗四百メートルリレー。百メートルのトラックを一クラス男女二名ずつが交互に走る。短距離走が得意な勲は、あえて参加しなかった。勝っても負けても、皆が注目するリレーの中に居たくなかった。
結果は先頭走者の女子に美代子を起用した九組が、ダントツのトップだった。
美代子は顔が小さく、小麦色に焼けた長い足でスタイルは抜群だった。
スタートから群を抜く走りで、その姿は眩しかった。ラスト競技のまさにヒロインだった。 「…あの安田が俺のことを作文に書いた心境は、一体何やったんやろ…」
走る姿を追いながら勲の胸には、言うに言えない想いがこみ上げて来る。
更にそんな思いに拍車が掛かる。
各学年の優勝したクラスの表彰式が始まろうとしていた。
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勲があの夜、天使に見えた幸代だが校内で出会っても勲はわざと目を逸らし、無視した。
母を亡くした生徒を何とか立ち直らせようとする心根からの親切心であり、別に勲に淡い恋心を抱いているはずが無い。試験の成績も下降線を辿る不良に、誰が想いを寄せるものか。そう心に刻んだ。
全校集会で作文を読んだ安田美代子にしても同様だ。
二学期が始まってから、勲の家に『藤田君を真面目にさせる会』の女子生徒達も来なくなった。勲にそんな価値が無いと踏んだのだろう。
しかし勲は、ホッとした。常に誰かに監視されているようで身動きが取れなかったのは、事実だ。学校生活は勲にとって、ただ日々を送るだけのことだった。
男四人の三食は又、村上給食に戻った。たぶん、医者の兄が今までにも増して藤田家の家計を援助したのだろうと、勲は思った。
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あの夜、勲は二日ぶりに家に戻った。中の間で父と兄二人がテレビを見ていた。
「……ただいまぁ…」
「お帰り!」
父だけが返事する。兄たちはテレビ画面から視線を放さない。
「兄ぃちゃん、ボストンバック勝手に持って行って堪忍なぁ」
「二階の俺の部屋に置いといたらええ…」
後で分かった事だが、勲が「すずらん」を出てから、幸代が勲の家に電話を掛け、事の次第を説明し、幸代の母が何らかのアドバイスを父にしたという。
今で言う勲の〝プチ家出〟の顛末である。
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「今晩は、お邪魔します、こんな時間にすみません」
幸代の父母は、善意の無視をしてくれ、弟は「あれ、だれ?」と母に聞いている。
大きな皿に幸代は、大根、こんにゃく、厚揚げ、ごぼう天を二つずつ盛ってテーブルに置き、勲の前に座る。
「さあ、食べましょ!」
「……い、いただきます!」
味は、勲の母と同じで濃く、甘かった。涙が出そうだった。
以前、母がいた頃、藤田家にもこんな一家団欒の温もりがあった。
「藤田君、おいしい?」
余計に涙が出そうになった。しかし、学校で突っ張ってる手前、幸代の前で涙は見せられない。
「うん、おいしい…」
「…良かったぁ、どんどんたべてネ!」
幸代が天使に見えた。
午後十時過ぎ、勲は幸代の両親に心からの礼を言い、「すずらん」を後にした。
北の夜空には、ポラリスが輝いていた。
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「お母さん、藤田君」
入り口にボストンバックを置き勲は、一礼する。
「五組の藤田勲君よ」
「あら、そう、早く入りなさい!」 幸代の母は美人だった。
店は六人掛けのカウンターと四人掛けのテーブルが二つ、こじんまりとした造りだ。
店の奥は台所になっていて、四人掛けの食卓には幸代の両親と小学校低学年の弟が座っている。
「お店の関係で、これから夕食なの。お母さん、藤田君、お腹空いてるんだって」
「…い、いえ、別に…」
「幸代、店のテーブルに座ってもらいなさい。藤田君、悪いはねえ、四人分しか作っていないの。幸代、お店の関東煮を出してあげたら?」
午後六時以降は、酒やビールを出すスナックで九時が閉店。
酒の肴に関東煮が常備されている。
「じゃあ、私も藤田君と食べるわ」
そう言って幸代は支度する。
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「…藤田君、入る?」
勲が幸代と口を聞くのは初めてである。
「……母には藤田君が家出していること内緒にしとくから…」
幸代は『藤田君を真面目にさせる会』には入っていない。
しかし、あの作文を書いた安田美代子とは同じクラスメイトで仲がいい。
「…二日も無断で学校休んでるから、皆心配してるよ」
幸代の声は、意外にハスキーだ。
「どうせ、おせっかいや!誰も俺のことなんか心配するかい!」
「……藤田君、いい加減にしなさい!」
まるで姉のような口ぶりで幸代が、切れ長の目をさらに吊り上げて叱る。
「お腹、空いてるんでしょ?さあ、意地を張らずに入りなさい」
幸代は、看板を店の中に入れる。
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午後九時を過ぎ、店頭の看板の電気は消えている。
勲は中に入るべきかどうか、躊躇した。喫茶店のドアが開き、女の子が出てき、四角い看板の電気コードを抜き、看板を仕舞おうとしている。
「?……藤田、君?」目と目が合う。「…やっぱり、藤田君!」辻木幸代だ。
去年のクリスマスイブの日、日記帳をくり貫いた手作りの小物入れのプレゼントを渡せなかった、片想いの相手。
幸代の家は引越ししこの場所で母が喫茶店を開いた。一度一人で店の場所を見に来たことがある。
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公園の森ノ宮口から国道に出る。国鉄環状線の森ノ宮駅構内の大時計は、午後八時半を回っている。
埃っぽい国道の北側を東に向って歩く。トロリーバスの緑橋ターミナルを過ぎると、左前方に円筒形のガスタンク二つが目に入る。次の大きな交差点が深江橋だ。
勲は右折して家に向かうつもりだったが、直進して放出街道を目指す。胸がドキンドキン波打つ。
「…俺、何考えてるんやろか?」
こんな行動をとっていいのだろうか?頭の中の思考と足の運びが矛盾している。
放出街道を越えるとF市。一つ目の小路の角を左に曲がる。その先の右角に喫茶店「すずらん」がある。
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顔が眩しい。ハッと目を開けると、懐中電灯の光が目を射す。逆光で誰が勲を照らしているのか分からない。
「こんな所で一体、何をしとるんや?」 布団から体を起こすと、警官が勲を見下ろしている。傍にもう一人居る。その警官が「何をしとるんやと聞いとるんや!」と、威圧的に問い質す。
「……星が綺麗から布団に寝て夜空見てる…」
「ほう~っ、布団に丸まって星が見えるんか?」
人を小ばかにした口調で問い詰める。
「…じぃ~っと星見てたら、いつの間にか寝てしもてた…」
勲は、そそくさと布団を畳み、ボストンバックに詰め込み帰り支度を決めこむ。
「おい、何処へ行くんや!」と、勲を止めようとする。懐中電灯を照らしていた年配の警官が「早よ家に帰るんやぞ。道草したらあかんぞ!」と、口調は厳しいが、勲の胸のうちを察して優しさがこもっている。
その言葉を背に勲は「ええ人やなぁ…」と、身勝手な言葉を小さく発して大阪城公園を後にした。
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その日の夕方、浦添と吉田は帰った。
勲は昨日と同じ場所に掛け布団を敷いた。薄暮の空にはコウモリの群れが現れ、上下左右に不規則な飛行を繰り返す。チュウチュウと鳴きながら群れは木立の中を彷徨い、いつしか西の空の方へ飛び去って行く。
勲のポケットには百円玉が一枚、情けなそうに入っている。アンパン一個と牛乳一本の朝食以来、公園の水道の水以外、口にしていない。腹は減っていない。ただ寂しさだけが胸に込み上げてくる。
今さら家に電話を掛けて父に謝ったところでどうしようもない。無断で学校を休んでいる事を二人の兄に、こっぴどく叱られるだけだ。とりあえず寝よう。勲独りなので、掛け布団に丸まって眠る。
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グラウンドは整備され、どこにもスパイクの跡など無い。ホームベースまで勲の足跡が付いているだけ。
勲は、右バッターボックスに立つ。両手でバットを握り、構える形を作る。
「阪神・巨人戦もいよいよ九回裏のタイガースの攻撃。5対2でジャイアンツのリード。ツーアウト満塁、バッターボックスの藤田のカウントはツーストライク・スリーボール。ホームランが出れば、ナント、逆転・満塁・サヨナラホームランの場面であります!」
泣き叫びながら勲は、実況中継する。
「ピッチャー振りかぶりました……投げました!アウトコースの直球!カキーン!藤田、外角球のストレートをおもいっきり引っ張りました!白球は夜空高くレフとスタンドに舞い上がりました……入った入った!藤田、奇跡の九回裏、二死満塁、カウント、ツースリーからの逆転・満塁・サヨナラホームラン!」
勲は両手を高々と掲げて一塁ベースに猛スピードで走る。一塁ベースを蹴り、二塁へ、そして三塁ベースを回り、ホームへ。
頬に溢れ出る涙は、走行と共に飛び散って行く。表情は笑みに変わる。
ホームベース上では浦添と吉田が万歳三唱をしながら、勲を迎える。
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母が死んだ日から勲は、人前で大声を出して泣いていない。
最愛の母を失ったやるせなさ、心にポッカリ空いた穴、中学校での皆の勲を見る目。『藤田君を真面目にさせる会』の、おせっかい。男だけの藤田家の無味乾燥な日々の生活。
勲一人では、どうしようも出来ない明日からの未来。頭蓋の中の混沌とした思考。何も考えたくない、ただただ大声で泣き叫びたかった。
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「藤田、一体どこ行くねん?」
「日生球場や!お前ら、帰りたかったら帰ってええんやぞ」
「日生球場行って何すんねん?まだ野球やってへんぞ」
大阪城公園の南を走る国道の向かいに、近鉄バッファローズのフランチャイズの日生球場がある。勲は阪神タイガースのファンだが、家から自転車で二十分の所にある日生球場に、野球部の村瀬とよく来た。
ナイター試合で七回になると外野席は、ただで入れる。そのうち、パ・リーグは近鉄ファンになった。
正面入り口を南の方へ回る。一塁側内野席の入り口。その金網の中へ勲はバックを投げ入れる。続いて両手足を金網に掛けて登り、股がり内側に飛び降りる。浦添と吉田が続く。
一塁側内野席の一番上から、球場内を見渡す。
「広いなあ!これが野球場かぁ…」吉田が感嘆の声をあげる。
「…藤田、どないすんねん?」浦添が勲の顔を覗き込む。
勲は「ワァ~ッ!」と叫びながら、スタンドを駆け下り、ネットをよじ登り、グラウンドに降りる。
目からは涙が溢れ出している。
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雀の囀りで勲は、目覚めた。
夜露で服とズボンが湿っぽい。体を起こして周りを見回す。浦添と吉田の姿が無い。
「あいつら、帰りよったなぁ」 小さく呟き、それは仕方ないと納得し、掛け布団の裏の草を叩き、畳んでボストンバックに詰める。
「お~い、朝飯やぞぅ!」
浦添と吉田が、こちらに走って来る。浦添は牛乳瓶三本、吉田がアンパン三個を草むらに置く。「…お前ら、これどうしたんや?」「パン屋で買うたんや、なあ浦添」「そうや、買うたんや」
「今、何時や?」
「五時半や」腕時計を見ずに浦添が答える。
「こんな時間にパン屋が開いてるかい!正直に言うてみい」
「……あっちの住宅を散歩してたら、パン屋があって、店の前に牛乳とパンの入った箱があったさかいに、三人分持って来たんや」
「……そうか…」
それ以上、勲は何も言えない。ただの朝食を済ませ、勲はボストンバックを手に歩き出す。
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次に吉田が話し出す。
「藤田、俺の家にはなあ、お父ちゃん居てへんのや…俺が五歳の時、肝硬変いう病気で死んだんや。幼心に覚えてんのんが、酔っ払うてはお母ちゃんに暴力を振るとったことや。年子の二人の妹は泣くばっかりで、俺はお母ちゃんの体の上に覆い被さって、お父ちゃんの暴力を一身に受けるんや。そやから、お父ちゃんが死んだ時、何かホッとしてうれしかったんや…それ以来、お母ちゃんが大衆食堂の賄いをして、俺ら三人の兄妹を育ててくれてるんや…」
勿論、こんな話を浦添や吉田から聞くのは初めてだ。
「藤田は、お母ちゃん死んだ時、泣いたか?」 吉田が聞く。素直で素朴な質問だ。しかし、勲は素直になれない。
「そんなことより、花札でもしょうか?」 ここでも勲は自分を見せようとしない。突っ張る。
バッグから花札を出す。正月、勲は家で父母とよく花札をして遊んだ。
《花合わせ》と言って、三人でやる場合には確か〝手八の場六〟、各人が手に八枚の札を持ち、場に六枚の札を表向けにまく。そして手札と場札の絵を合わせて取り、一番早く手札の無くなった者が勝つ。
「金、賭けるんか?」 浦添と吉田が同時に聞く。
「そんなことしたら、賭博やないか、ただの遊びや」
《花合わせ》のルールと役を勲が教えて勝負が始まる。
「もう、夜中の二時やなあ」
浦添が門田から買った腕時計を見て、大きな欠伸をする。
「そろそろ、寝よかぁ」 と、吉田。
「そうしょうか…」 と、勲。
家出初日の夜は、勲らのちっぽけな存在など無視して、更けて行く。
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在日韓国人の浦添の家庭は貧しい。何も好きで窃盗をしているのでは無い。しかし、環境で人は変わる。
俺はどうして人が変わったのだろうか?甘えだ。父と母や兄弟に甘え、学校に甘え世間に甘えているのだ。
一人では何も出来ず『MF倶楽部』を作って、本岡を操り、いっぱしの不良を気取っていただけなのだ。
拗ね根性は子役を始めたあの新橋演舞場近くの砂場で母に頬を打たれた時に勝手に自分で植え付けたのだ。その拗ね根性が今の今も心の中に棲みついている―と、勲は自縄自縛する。
しかし、それは多感なこの世代が人生という道程を通過する時に避けられない、青春の蹉跌なのだ。
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晩飯を食べ終え、勲はボストンバックから掛け布団を出し、草むらに敷く。その上に三人並んで仰向けに寝っ転がる。
浦添は小学生時代、アパートの部屋の中で蟻を箱の中で飼っていた。根は優しい奴で、生き物や自然に興味を持っていた。
漆黒の空を見上げながら「あの北の空に輝いてんのんが《大熊座》や。全天の中で三番目に大きい星座なんや。大熊座の目印と言うたら、有名な北斗七星や。分かるか?ほぼおんなじ明るさの星が七つ見えるやろ」
「おお、あれか!」 吉田が夜空を指差し、叫ぶ。
「柄杓を伏せた形に並んでるやろ?綺麗やろ…」
夜空を眺める勲の目に、自然に涙が滲んで来る。
「あの隣にあるんが小熊座や!七つの星が北斗七星にそっくりやろ。夜空の星はなあ、季節や時間によって位置を変えるんや。そやけど小熊座のしっぽに輝いてるポラリスだけは、いっつも真北の空にあって動かへんのや。それはなあ、ポラリスが地球の自転軸を天まで延ばした《天の北極》のすぐそばにあるからや。そやからポラリスは『北極星』と呼ばれて、北の方位を知るのに役立ってるんや」
「……ポラリス…いっつもあの場所で輝いて居るんや…そうや!ポラリスはお母ちゃんや!いっつもボクを見つめ続けてくれるんや…」 勲は、そう決めた。
勲は、二人に悟られないように手の甲で涙を拭った。
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出棺の際、母に真面目になると誓った事も、もうどうでもよかった。また勲にボス的行動が芽生えた。
勲は国鉄大阪環状線の森ノ宮と京橋の中間地点の公園の木の茂った場所を、ねぐらに決めた。遥か西に聳え立つ大阪城天守閣に初秋の夕日が照りつけている。
吉田と浦添が晩飯の幕の内弁当を調達して来た。
「お前らまさかパクって来たんと違うやろなあ?」
「人聞きの悪いこと言うな!」
「俺らは、金あるんや!」 二人が自慢げに言う。又どこかで盗んで来た金に違いない。
しかし勲に二人を責める資格など全く無い。自分の家出に無理やり同行させているのだ。一人で家出する根性も無いのだ。
「情けない」 勲は心の中で、悔いた。この二人に礼こそ言え、文句を言う筋合いでは無かった。
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下の兄の大きなボストンバックに、夏用の掛け布団を詰め込み夕方、家を出た。
事前に窃盗常習犯の吉田と浦添に有無を言わさず、仲間に入れた。もうどうなっても構わない。
集合場所は小学校時代、鉄屑をよく採りに来た大阪砲兵工廠跡地。今は工廠の巨大な鉄骨の残骸は解体され、整地されて大阪城公園と名を変え、市民の憩いの場となっている。
森ノ宮の入り口から公園に入り、広い道を北西に進むと噴水がある。吉田と浦添はすでに来ており、噴水の円形の縁に座っていた。
「藤田、えらい大きなバッグ持って、どうしたんや?」と吉田が怪訝そうな目で言う。
「アホかお前ら…家出すんのに何も持ってきてへんのか?」
「えっ、ほんまに家出するんかぁ?」浦添がきょとんとした顔で聞く。
「…誰が嘘で家出するんじゃ!まあええわ、とにかく今晩寝る場所を探そ」
吉田にボストンバックを持たせ、勲が先導して公園内を歩く。
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「死んだら、死んだら、自分のからだから抜け出して、農家の横の道を歩いていくそうです。歩きながら私のために泣く人が見えるそうです。
赤い帯をした人も青いシャツを着た人も分かるそうです。そのうち、お花畑に来てしまうそうです。私の好きな花がみんなあるそうです。
私も死んだら、もし死んでしまったら農家の横の道を歩いて、お花畑に行ってみたい…でも遠いそうです。たくさんたくさん一人ぼっちで歩かなくてはならないそうです。だから私にはがまんできないかもしれない。きっと……」
その日の放課後、安田が鉛筆書きの原稿用紙を勲に手渡した。勲は言葉が出ず、まどろむような気分の中で、原稿用紙を手に取った。
勲のクラスの五人の女子生徒以外にも安田ら合わせて十人が『藤田君を真面目にさせる会』のメンバーだと知る。その存在が学校中に知れ渡ってしまう。
勲は、家出した。
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「『F君、頑張って!』大阪市立T中学校二年、安田美代子。
F君は今年六月一日、最愛のお母さんを亡くしました。F君にとってのその悲しみは私たちには、計り知ることなど到底不可能です。しかし、私たちはF君の ……」
勲の耳は、真綿で包まれたように安田の声が遠ざかって行く。軽い目眩が襲い、腋の下と背中に脂汗が滴る。頭の中は、真っ白。もうここには立って居られない。
列から走り出そうとする。生活指導のマンボと白バイが歩み寄り、勲を制す。安田の朗読は続く。
要するに藤田勲という生徒が母を亡くしたのを契機に、不良から真面目な生徒にさせる自分達の活動を綴っているのだ。そして、最後に…
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二学期早々、勲は又『藤田君を真面目にさせる会』の存在を知らされる。
月曜日の朝に校庭で開かれる全校集会。校長の訓話の後、教頭が朝礼台に上る。
「ええ、この度、本校の生徒が『第五ブロック市立中学校弁論大会』で優勝致しました」
第五ブロックとはH区、J区の公立中学を指す。
「そこで、今朝はその生徒に優勝した作文を披露してもらう。二年九組、安田美代子!」
指名されたその女子生徒が、原稿用紙を片手に登壇する。全校生徒が拍手を送る。
安田美代子は文武両道の優秀な生徒だ。
原稿用紙を両手で広げ、マイクに近づく。
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「夏の日の想い出」―。
八月、二十四歳の青年がヨットで兵庫県の西宮ヨットハーバーを秘かに出航した。堀江謙一。
西宮~サンフランシスコ間の単独無寄港太平洋横断という、日本人初の偉業を成し遂げた。19フィートのヨット〔マーメード号〕での太平洋横断記録『太平洋ひとりぼっち』は、その年の「菊池寛賞」を受賞。
翌年、石原裕次郎の主演で映画化されて、大ヒットとなった。中三の夏、勲は『太平洋ひとりぼっち』 を見て涙した。
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困ったのは、伯母の早寝早起きだった。
勲は母が亡くなってから、奥の間で父と二つの寝床で寝起きした。その間に伯母が布団を敷き、寝床にした。
午後八時就寝、午前五時半起床。育ち盛りの勲は、昼まで眠りたい。しかし、そうはいかない。
「勲っさん、早よ起きんと、つまらんよ!」 と言って八畳の蚊帳を畳む。
父と母の間で、母の乳房を触りながら眠ったあの夏の日。
朝、母は蚊帳を吊るしてある紐を解き、まだ寝ている勲を蚊帳で包む。鼻孔に蚊取り線香の匂いが入り込む。勲はこの匂いが好きだった。
そして母は、両手で蚊帳の上から勲の両腋の下をくすぐる。勲は「こそばい!こそばい!」 と、布団の上を転げ回る。
夏の日の〝母の目覚まし時計〟―もう、その時計は無い。
有るのは、勲の胸のロケットだけだった。
母の居ない夏休みは、勲の心を孤独と虚脱感をない交ぜにさせながら、終わった。
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便所のスリッパは踵を手前にして脱いで揃える。畳の縁や襖の敷居は、絶対に踏まない。夕方、中庭や表の地道に勲がホースで水を撒くと必ず「水溜りをつくったら、つまらんよ!」と徳島弁で小言を口にする。
中庭に水溜りを作ると、ボウフラが湧いて蚊が出る。地道に水溜りを作ると、自動車が通過してタイヤが泥水を撥ね、玄関の引き戸を汚す。
しかし勲は腹が立たなかった。生前、母もよく口にしたことだ。それに伯母とはいえ、家の中に女性の居ることが、何故か勲の心を和ませてくれた。
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夏休みに入った。
勲ら兄弟が〝阿波のおばちゃん〟と呼ぶ、徳島の石井町に住む父の姉が藤田家にやってきた。母の葬儀の時にも來阪していた。夏休みの間、男所帯の藤田家の家事一切の面倒をみるためだ。
大学四回生と高三の兄は、クラブの合宿で居ない。上の兄は北海道の帯広でアイスホッケーの、下の兄は長野県の菅平でラグビーの夏合宿。だから、父と勲と阿波のおばちゃん三人の生活だ。
阿波のおばちゃんは、甲斐甲斐しく動き回る。掃除洗濯は言うに及ばず、中庭の手入れ、食事の買い物、三度の食事の支度、そして父の印刷の仕事も手伝う。
明治生まれの伯母は、その年代の女性らしく、父を立て勲には厳しく振舞った。
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勲は、金のロケットを姉からの千円札で買った。女物しかないがしょうがない。
形は楕円形。勲が一番気に入っている母のアルバム写真の一枚を剥がす。ロケットの蓋を開ける。頬笑む母の顔を楕円形に切り取る。その裏にセメダインを塗り、ロケットの底に貼り付ける。
「お母ちゃん、いっつも一緒や!」
蓋を閉め、金の細い鎖に頭に通す。ロケットの中の母が、勲の胸の辺りで揺れる。
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「……誰からの手紙やろ?」
便箋を封筒に戻しながら、勲は想いに耽る。これまで、級友らからの年賀はがき位しか、書き物など貰ったことが無い。勿論、手紙は初めてだ。
便箋に何かがつかえる。取り出して見ると、半紙に包まれて千円札が一枚、入っていた。
「…お姉ちゃんや!」
もう一度、便箋を開く。
〔或る人は貴方がお母さんを早死にさせたと言います〕
この事をもし知るなら、身内しか居ない。
手紙は、女言葉。きっと姉が勲の女友達を装ってくれた手紙に、違いない。
〔もう、泣いていませんか?〕
勲は、泣きに泣いた。
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七月二十六日。十四歳。勲の誕生日。一通の手紙が勲に届いた。
差出人の名前は無い。封を切り便箋を広げる。微かに香水の香がする。万年筆書きで整然とした文字が並ぶ。
「勲君、お元気ですか?十四歳の誕生日おめでとう!貴方のお母さんが亡くなって早や、五十日以上が経とうとしていますね。もう、泣いていませんか?或る人は貴方がお母さんを早死にさせたと言います。私は断言できます。それは違います!誹謗中傷です!理由は私にも分かりません。貴方のお母さんが亡くなったのは、天命なのです。身に備わった運命です。森羅万象―生きとし生ける者は、必ず死を迎えるものなのです。だから勲君が何かの責任を負う事は、全く無いのです。お母さんは天国から、いつも貴方の事を見守ってくれています。心を強く持って下さい!お父さん、お兄さん達に心配をかけない様、晴々しい十四歳の人生のスタートを切って下さい。」
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四十九日の法要は、藤田家の菩提寺『龍海寺』で親族が集い営まれた。
北区にある曹洞宗のこの寺には緒方洪庵の墓がある。洪庵は、幕末における日本の蘭医学者の第一人者として仰がれ、教育者としても優秀な門下生を世に輩出した。
天保年間に大阪の北浜に町家を購入して『適塾』という蘭学塾を開く。一八六二年(文久二年)八月、幕府の強い要望で幕府の奥医師兼西洋医学所頭取として、江戸に召し出されたが、わずか十カ月後、江戸の頭取屋敷で死去した。享年五十四であった。
墓は東京駒込の高林寺にあるが、大阪に縁の深いため洪庵の遺髪が、龍海寺の墓に納められ祀られている。寺内には門下生の大村益次郎の足塚もある。
洪庵の墓の北西に藤田家の小さな墓がある。
その前で納骨が行われた。勲は遺骨を墓の下に収められる事を初めて知った。納骨の読経が終わり親族らが本堂に戻る。
勲は墓の後ろの土を掘る。小学生の墓参りの時、下の兄と埋めた五円玉を十円玉に換えた。
「…お母ちゃん、月命日には必ず墓参りするからなぁ…」
もう一度勲は、母に手を合わせた。
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「藤田、お前のとこへうちのクラスの女らが女中に行ってるそうやなぁ」
勲は尾形の股間を蹴り上げ、前屈みになった腹に横蹴りを見舞った。
「止めてえ!藤田君、止めてえ!」
坂本が叫ぶ。周りに居た男子生徒らが勲を羽交い絞めにして、喧嘩の仲裁に割り込んだ。
「ボケ!尾形、もういっぺん言うてみい!おのれ、承知せんぞ!」
体育室の机を挟んで勲は生活指導のマンボこと永井と向き合っている。
「藤田、お前はまだ反省が足らんのんと違うか?校内の乱闘事件で警察に補導されたんを忘れたんか!」
「誰が忘れるかい!」
「お母さんが亡くなって悲しい思いは理解するが、そのはけぐちに尾形をどつくとはどういう了見や!」
「事の次第も聞かんと、何で俺だけ悪もんにするんや!」
「今日のところは、校長に報告せんから、ここで一時間反省せえ!」
「誰が反省なんかするかい!はよ出て行け!」
勲は一言も反論せず、心の中で叫んでいた。
後で小耳に挟んだ事だが、五人の女子生徒達は『藤田君を真面目にさせる会』と秘かに名付けて行動していたらしい。
その事を知った勲は、全身の力が抜け落ちた。そんなおせっかいに自分はどこかで甘えていたのだろうか?いいや、そうでは無い。自分自身で、もう不良みたいな行為はしないと心に誓っていた。しかし、周りの連中はそんな勲の誓いなど知る筈が無い。
事実、尾形を一方的に暴力で捻じ伏せた行為を目にしたのだ。勲は自暴自棄になりそうな気持ちを抑え込んだ。母を早死にさせたのは自分自身だとの想いが、脳裏に去来した。
その日の夜、勲は工場の二階の納屋の中で声を殺して思い切り、泣いた。誰にも気兼ねなく泣ける場所は、ここしか無かった。
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「さ、坂本……お前ら一体何してんねん!」
クラス副代表の坂本、岡が台所で料理を作っている。奥の間の様子もおかしい。ズック靴を脱ぎ捨てて、和室に走る。
畑と浅野、宮田の三人が手分けして掃除している。
「……一体、どう言うこっちゃ?」
放心状態の勲は、ひとりごちた。
今ならボランティアとでも言うのか、五人の女子クラスメートは藤田家の家事を助けるグループを作ったのだ。勲の心境は複雑だった。喜んでいいのか?彼女たちの善意に礼を言うべきなのか?そんな事は到底出来ない。
何の相談も無く、勝手に善意を押し付けている。彼女たちは父と二人の兄に事前には相談を持ちかけ、了解を得ていたのだ。勲は捻くれた。
「お父ちゃんも兄ぃちゃんらも、ボクがお母ちゃんに代わって家事を引き受けた事を一体、どう思うてんねんや!もうええ、勝手にしたらええんや!」
この日の夕飯に勲は一切箸を付けなかった。父と二人の兄は、彼女たちの善意を受け入れた。勲は一層、拗ねた。
週に三日、彼女たちは勲の家の家事を取り仕切った。学校に行っても勲は、五人を無視し続けた。
尾形という体はデカイが頭の悪い奴が、休憩時間の教室で勲をからかった。
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七月に入った或る日の放課後、勲は有沢幸男と砂場の縁に座り、話し込んだ。
「藤田、夏休み俺の家に泊まりに来いや」
「いつもみたいに、浜寺の別荘で夏休みを過ごすんと違うんか?」
「今年は辞めや。家の庭にテント張ってキャンプ気分、味わえへんか?」
「キャンプかぁ…ええなあ」
有沢の石切の家の敷地は五百坪。庭もバカ広い。
「そやけど、お父ちゃんや兄ぃちゃんらの食事のこともあるからなぁ…」
勲は有沢の心優しい提案に即答出来なかった。
キャンプ遊びしたかった。悔しかった。
勲は僅か二分の家路に着いた。玄関横の工場の通路から台所に入った。予想だにしなかった光景が、勲の眼に飛び込んできた。
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市場への買い物は、母の使いで小学校時代から慣れたものだ。クラブに入っていない勲は、放課後すぐ家に帰る。以前のように未練たらしく野球部の練習も見ない。
校門を出て二分、裏門は閉まっているが、塀を乗り越えれば一分で家に着く。
まず仏壇の中の母を拝む。そして例の線香が焚かれているのを確認する。
台所に行く。一升焚きのガス釜に米をといで入れ、水をはる。タイマーなんて、無い。料理を始める時にスイッチを入れる。
市場へ向かう。料理のレパートリーは、全て母譲り。得意は揚げ物。カキフライ、一口トンカツ、えびフライ、小鯵の天ぷら。薄揚げと青菜の煮物、肉じゃが、鯨ステーキ等々。炊き込み御飯もなかなかのもの。
市場の色んな店の主人やおかみさんも母の死を知っている。だから、まけてくれたり、その日の仕入れの素材を使った料理方法も教えてくれる。
勲の賄いは順調だった。
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父と二人の兄そして勲と、男四人の日常が歩み出す。
朝は四人、昼は父一人分、夜は四人分の食事は、近くの村上給食が配達してくれる。中小零細企業の多い土地柄、給食屋は繁盛していた。
朝の味噌汁は勲が温める。夜はその日の献立によって、勲が手を加える。おかずが鯨の天ぷらだったら、甘辛い出汁を作り、卵を落とし半熟にし、ご飯を丼に分け “鯨の天丼”にする―といった按配。
しかし、給食はそのうち朝だけになった。勲の提案だ。
父ひとりになった「藤田印刷」。家計は火の車だった。医者の兄が影で援助してくれていた事を勲は、後に知った。
「お父ちゃん、村上給食やけど、朝だけにしょ」
「何でや?」
「そやかて、勿体無いやんか。昼は兄ぃちゃんらは学校の食堂で済ますし、ボクは昼、帰って来てお父ちゃんとボクの分作るさかいに…」
上の兄は大学四回生、下の兄は高校三年生。
「勲、昼帰って来る言うても、そんなこと出きるんか?」 下の兄が聞く。
「大丈夫や、任しとき!ほんで夕飯はボクが市場行って、おかずの材料買うて来るから…」
こうして、勲は藤田家の賄いになった。
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月曜日から、勲は登校した。ひとつの信念を胸に刻み込んで。
「人前では絶対泣かない。学校では母の死の前と変わらない態度を通す。『MF倶楽部』は解散する。その仲間とは距離を置く」 この信念を貫き、実践した。
教室に入ると生徒達は、勲に気がねして話しかけて来ない。辛かった。授業の始まる前の教壇に勲は、立つ。
「…皆、昨日は葬式に来てくれて、おおきに!」
教室内の緊張が解けた。参列しなかった生徒は、俯いていた。
六月の、けだるそうな太陽が校舎に照りつけるこの日から、勲の新しい小さな人生が始まった。
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金曜日に母が死に、土曜がお通夜、日曜が葬儀。葬儀には勲のクラスメートらも大勢、参列した。その中にはクラス副代表の女子生徒、坂本の姿も垣間見えた。
勲は、泣かなかった。いや、泣けなかった。母の死が、実感できなかったのだ。葬儀の一週間後位から、ふいに「母が死んだ!」という現実が、勲の胸の奥をドンと突き破るようになった。そして、涙が自然にこぼれ落ちる。
周りの大人たちは言う。「深い悲しみは、時が解決してくれる」と。
勲は信じない。十四年間の小さな人生で初めて体感した、こんなにも悲しく切ない想いが消えるはずがない。
実際、勲は一年間、隠れて泣き続けた。
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藤田家奥の間の仏壇の中には、勲の祖父母、夭逝した兄姉、そして、母の位牌が並べて納められている。
『秀室貞雅大姉位』―。母の戒名。仏壇前の黒檀の台に骨壷が置かれている。家の中にもう母は、居ない。
納骨までの四十九日の間、仏壇前で焚かれる線香の火を絶やしてはならない。
蚊取り線香を細くした様な螺旋状の線香。中心の輪っかの紐を用具に吊るすと、梵鐘の様な形に線香が垂れる。一個で一時間以上、保てる。
勲は、この事に専念した。火が消えると本当に母は、黄泉の世界に逝ってしまうような気がする。事実はすでに母は、黄泉の世界に居るのだが…。
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母は、白い布に包まれた四角い箱の中の骨壷に納まった。勲は、遺骨を拾うことも固辞した。出棺前の最後の母の頬笑み―その映像を勲は《母の遺書》とした。
「…勲、お母ちゃんや…」
火葬場から姿を現した一団の先頭を歩く父が、骨壷の入った箱を差し出す。勲は、一瞬躊躇する。
「…勲、お母ちゃんや…お前の大好きなお母ちゃんや!」
下の兄が目を赤くして、呟く。父が勲に箱をそっと手渡す。胸に抱いた箱の中の骨壷から、母の温もりが勲の胸の内に移動した。
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「勲、あと一時間程の辛抱やでぇ」
幸男の兄が優しく声をかける。勲は荼毘に付される母の遺体の煙突から出る煙から、遠ざかりたかった。その心情に気づいた幸男の兄が、ドライブに連れ出してくれたのだ。
「幸造ちゃん、何で人て死んでしまうのん?」
母の死に接して勲が初めて、未知の疑問を発した。幸男の兄の幸造は、勲の下の兄より一歳年下の高二である。父や姉や兄達にはどうしても聞けなかった。母の死は、自分が警察に補導されて一週間後。その死の責任は勲自身によるものだと痛念しているからだ。
「…難しい問題やなあ。勲はどう思うてるんや?」
「…分かれへんから、聞いてるんや…」
畦道の草を千切りながら、勲は遠くを見遣った。
「勲は輪廻転生いう言葉、聴いた事あるか?」
「りん、何?もういっぺん言うてみて」
「輪廻転生や」
「…輪転機やったら、うちの工場に三台、あるでぇ」
「おっ、勲、冗談言えるぐらい、元気出て来たやないかぁ」
「…そんなんと違う……」
「まあ、どっちゃでもええ。輪廻転生言うたらなあ、仏教の世界では生物が死んで、別なものに生まれ変わる過程を永久に繰り返すちゅう考え方や」
「ふうん…ほんなら、お母ちゃんも何か別なもんに生まれ変わる言うことかあ?」
「まあ、そう言うこっちゃ!」
しかし、今の勲に輪廻転生という仏教の概念など理解出来る心の余裕など、微塵も無い。母は間違いなく死に、今、荼毘に付されている。勲の心の時計は、停止したままだ。
「…お母ちゃん、又、お母ちゃんに生まれ変わってくれたらええのになぁ……」
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「勲、大丈夫か?」 大親友、有沢幸男の下の兄がオートバイのハンドルを操作しながら、後ろの勲を気遣う。
「……」
勲は出棺間際、母との最後の対面で夥しい数の供花の花びらを、眠る母の遺体の周りに散らした。目を瞑ったままの母の安らかな表情が一瞬、微笑んだように見えた。
「…お母ちゃん!これでお別れや…ボク、これから、生まれ変わるわなぁ……」
そう心に誓った。だから、瓜破霊園の火葬場での最後の別れにも、だだを捏ねて立ち会わなかった。自宅奥の間の棺の中で微笑んだ母の顔を、心と脳裏に刻み込んだ。
オートバイを降りて、田圃の畦道に腰を下ろした。瓜破界隈は西瓜の産地だ。勲の目の前一帯に西瓜畑が拡がる。
「…スイカさえ食べへんかったら、お母ちゃん、こんな早ように死なへんかったんや……」恨み言を心で囁いた。
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斎場の高い煙突から、うっすらと白い煙が風に弄ばれている。母の遺体の火葬が始まっている。
「お父ちゃん、わてが死んだら、あの大きゅうて綺麗な斎場で焼いてや」
生前、母は父にそう漏らしていた。大阪市の南東の端、平野区。そこに瓜破霊園はある。
大化年間(645~649年)道昭法師が当地の庵で祈念の最中、天から光明の射した御神体が降臨され、民が瓜を割(破)ってお供えしたことから〔瓜破〕と呼ぶようになったという説と、弘法大師が高野山へ登る途中、この地を通り、水を所望したところ、住民が瓜を割(破)って差し出したことからこの名が付いたという説がある。
いかにも歴史好きの母らしい、死に際しての希望だ。
もともとは、瓜破村の墓地として造られたが、昭和三十年に大阪市に編入され市立の霊園になった。
翌々年に阿倍野、平野、住吉の斎場がここに移され、約二十八万平方メートルの大霊園になった。
いずれにしても、大阪市の東北の端のH区で亡くなった人の火葬をかの地の霊園で執り行うことは異例であった。
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「ほんまに早過ぎる死ぃやったなあ…」
「まだ五十一やさかいになぁ…」
「雅子はんは、気立てのええ人やったさかいになぁ…」
「わてみたいな年寄りが、変わってやりたい思いやわぁ…」
小田のおばあはんが、その気も無い言葉を発す。そして、お通夜の宴が始まる。
隣近所の主婦たちが台所から惣菜や酒、ビールをせかせかと運ぶ。父は酒に弱い。一合も飲めば目も頬も真赤に染まる。
兄や医者の兄、嫁いだ姉、義兄、誰一人酒は飲めない。親戚の何人かは母の事を偲んで、ちびちび飲っている。
当時の通夜は、その趣旨通り亡くなった人の傍に座って、一晩中守る。そのために食材や酒を用意する。しかし、十四歳の勲の目には大人達が母の死を良い事に飲み食いしているとしか、映らない。
母の傍を離れ台所に行く。酒の燗や料理の追加に慌しい。勲の居る場所が無い。
台所を出て風呂焚き場のコンクリートの淵に座る。まだ風呂は焚いていない。
いつものように締め板を斧で細く割り、風呂釜に入れ、新聞紙を丸め板の中に潜り込ませる。徳用マッチを擦り、新聞紙に火を点ける。
「……昨日、あのままお風呂焚いてたら…お母ちゃんの死に目に会えたんや…ほんならお母ちゃん、ボクに何か最後の言葉、かけてくれたに違いない……」
新聞紙から板に火は燃え広がる。赤い炎が勲の二つの眼球に映し出される。涙が滲み出る。しかし、眼球の炎は消えない。
勲が母の臨終に立ち会えなかった慙愧の念も、消えることは無い。
風呂釜に石炭を勲は、くべた。
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藤田家の家紋〔下がり藤〕の模様が染め抜かれた冠婚葬祭用の幕が、玄関部分は人の出入りのため吊り上げられ、家屋と倉庫の方に陣幕のように張り巡らされている。
玄関に続く三畳間、右手の中の間、母の遺体が眠る奥の間。襖は全て取り払われ、通夜と明日の葬儀の準備は整った。
喪主の父の横に、二人の兄と勲、その後ろに医者の兄夫婦と大先生と妻、嫁いだ姉夫婦、そして親族と近所の人達が座る。藤田家の菩提寺、曹洞宗「龍海寺」の三人の僧が枕経をあげる。
父から焼香が始まり、次々と読経の流れる中、その儀式は終わる。
僧の中の長老さんが参列者に向き直り、法話を始める。阿弥陀仏のいるという極楽、西方浄土や、曹洞宗を開き永平寺の開祖となった道元禅師の有難い講話が続く。
勲には、何ひとつとして有難い話では無かった。
「…何で、お母ちゃんはボクを放ったらかしにして、死んでしもたんやろか…」
この事だけが頭蓋の中を駆け巡る。いくら父が包んだのか、長老さんはお布施を受け取り、二人の僧を従えて去って行った。
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「……お、母ちゃん……」
そう呟き、勲は不規則ではあるが一時間に幾度か、白い布を両手で捲り、しくしく泣き続ける。その姿を痛々しい目で見る姉。
「勲ちゃん……正和くんのとこへ行ってきたら?…」
マッカの家には卓球台があり、卓球が得意な勲がしばしば遊びに行っている事を姉は、知っていた。
♪雨よ 教えてくれないか
これって フェアなのかどうか
彼女はボクのこと好きでもないのに
ボクのハートを奪って行くなんて…
「悲しき雨音」のメロディーが流れ、外は小ぬか雨が降り続く。
勲は、神経細胞の入っていない稚拙なロボットのように、マッカにピンポン球を規則正しく打ち返す。
「藤田…もう、止めよかぁ…」
マッカが気遣うように、話しかける。午後六時半。通夜の法要は七時からだ。
「…う、うん…」 勲は、ラケットとピンポン球を卓球台の上に置き、無言で階下に降りる。
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マッカの家の工場の二階。卓球場。勲は、マッカを相手に卓球をしている。
ピンポン玉が中央のネットを飛び交う音とメロディーが、妙に重なり合う。
昨夜から今朝にかけて、藤田家には遠方から多数の親戚が集まっている。
台所では、お通夜に出す煮炊きもの等の調理に、割烹着姿の近所の主婦たちがせわしく動き回っている。
父と高三、大学四回生の兄は、葬儀の段取りや親戚や父母の知り合いの相手などの対応に忙しい。
勲は何もすること無く、母の傍に呆然と、うな垂れ座っている。懐剣が布団の母の胸の辺りに置かれている。顔には白い布が被されている。母の霊魂は未だ肉体に宿っているのだろうか?
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♪Listen to the rhythm of the falling rain
Telling me just what a fool I've been
I wish that it would go and let me cry in vein
And let me be alone again
降りしきる雨音のリズムを聞くと
お前は何てバカなんだって 言ってるみたいだ
雨なんて消え去って
むなしく泣かせてくれればいいのに…
もう一度ひとりにしてほしいのに…
♪Now the only girl I've ever loved has gone away
Looking for a brand new start!
But little does she know that when she
left that day
Along with her she took my heart
僕が愛した たったひとりの彼女が去ってしまった
新しい出逢いを探しているけれど 彼女は知らない
去って行ったとき ボクのハートも
持って行ってしまったことを…
♪Rain please tell me now does that seem fair
For her to steal my heat away when she
don't care
I can't love another when my heart's
somewhere far away
雨よ 教えてくれないか
これって フェアなのかどうか
彼女はボクのこと好きでもないのに
ボクのハートを奪って行くなんて…
次の日は、小ぬか雨が降り続いた。カスケーズの「悲しき雨音」のメロディーがラジオから流れる。梅雨の季節― リクエストで必ず、流れる。
この日まで勲は「悲しき雨音」が大好きだった。しかし、今日からは哀しく切ないメロディーに変ってしまった。
♪ボクが愛した たった一人の彼女が去ってしまった
彼女は知らない 去って行ったとき
ボクのハートも持って行ってしまったことを…
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和男さんに貰った自転車で、和男さんの家に着く。
「こんばんわ……兄ちゃん、姉ちゃん…」
玄関に突っ立って勲は、覇気の無い声で呼ぶ。
「なんや、勲かいな…まあ、上がり」
和男さんが言い、その横で姉が頬笑む。
「……あのなぁ…お、お、お母ちゃん、死んで、しもたぁ……」
後の言葉は続かず勲は玄関の土間にしゃがみこみ、両手で土間の土を掻き毟って号泣する。それまでの四軒への訃報には涙を一切見せなかった勲の心が、崩壊した。
「どういう事や、勲ちゃん!お母ちゃんが死んだ?どういう事や!」
泣き崩れる勲を抱えて姉が問い質す。
「……僕が悪いんや!僕がお母ちゃんを死なせてしもたんや!姉ちゃん、和男兄ちゃん、ごめん……皆、僕のせいなんや!」
義兄と姉は、勲の補導の一件は知らされていなかった。
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「…お、おっちゃん…さっき、うちの、お母ちゃんが、死んでしもた…」
「何?何やて!」
中道(なかみち)で柔道の町道場を開く、裕さんという、おっちゃん。藤田家との姻戚関係など勲は、全く知らない。
裕さんと医者の兄は〝乳兄弟〟だと言う。母は三人目の子供を出産し乳の出が良かった。一方の裕さんの母は初産で乳の出が悪い。そんな時、知り合いの間柄では乳の出のいい方が他人ではあるが、自分の母乳を赤子に与えた。だから〝乳兄弟〟なのである。
「い、いつから具合悪かったんや!死因は何や?」
胃潰瘍―勲が死因を知ったのは、四十九日も過ぎてからの事だった。上の兄から知らされた。
「山下のおばちゃんと小田のおばあちゃんが、親切心から初物の西瓜をお母ちゃんに食べさせたやろ。あれがアカンかったんや。その後お母ちゃん、血ぃ吐いたやろ」
西瓜と吐血。そんな因果関係は素人には理解出来ない。医者の兄の見解だった。
「あんたが警察沙汰を起こすから、雅子はん、はよ死んでしもたんや…あんたが殺したようなもんや……」
勲を責めた小田のおばあはん!お前らのせいで、お母ちゃん死んでしもたんやないかあ!勲は、怨んだ。
藤田一家は金輪際、西瓜を口にする事はなかった。
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その母が今、遺体となって病床に仰向けになっている。この現実が勲には受け入れられない。人の死に初めて遭遇したのだ。祖父母の死は、記憶に無い。それほど幼かった。
最愛の母の死。しかも臨終には間に合わなかった。臨終の言葉すら聞いていない。悔やんでも悔やみきれない。涙はとっくに枯れ果てていた。
父に促されて勲は、死に水を母の唇に浸す。勲の心には何も浮かばない。虚脱した心、蒙昧な頭蓋、虚ろな視界。医者の兄が父に囁く。
「お父さん、訃報を知らせんと……」
「う、うん、そやなあ……」
この時代、どこの家にも電話があるということはなかった。遠方の親戚で電話のある家には電話、無い家には電報で訃報を伝える。それは父や上の兄たちの役。近隣の親戚や知り合いで電話の無い家への伝達役は勲。三人の男兄弟で役割が決められる。
勲は自転車で四方に走る。
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小学校五年の冬休み、勲は父母と三人で三重県の湯ノ山温泉に行った。
部屋の内風呂の温泉は親子三人が入浴するには狭い。父が入り、その後母と勲が入る。一緒に湯船に浸かり、勲は母の乳房に触れる。
「勲、いつまでもお母ちゃんのおっぱい触ってたらアカンよ」
「何でぇ?」
「もう五年生やろ、赤ちゃんと違うんやから…」
「そやかて、お母ちゃんのお乳触ってたら気持ちがええねん」
「かなん子ぉやなあ…」 そう言って母は湯船から上がる。
洗い場に右足を踏み出した母のお尻の間の茂み―。そこは、ふっくらと盛り上がっていた。前から見たことは幾度かあったが、後ろから見たのは初めてだった。
女性性器の仕組みの不思議を勲は、実感した。
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秋の町内会で奈良の竜田川へ繰り出した。
「千早振る 神代も聞かず竜田川 から紅に水くくるとは」 在原業平の詠んだこの句は、百人一首でも有名な一首で知られる。
竜田川畔を町内会の一団が紅葉のトンネルを散策する。その後、河畔の料理旅館での昼食兼宴会が催される。
町会長や藤田印刷の職人、他の工場の職人たちの歌や踊りが披露される。
母は〔大津タイヤ〕の販売代理店の社長をしている長瀬という人を相手に、二人で踊り始めた。何の踊りか勲には分からない。
母がおかめの面、相手がひょっとこの面を被り、腰をくねくねさせながら踊る。その所作は勲にも男と女の怪しげな内容であること位は、理解できた。
母は唄に合わせて楽しげに舞う。日常の母の立ち居振る舞いとは、明かに違う。何か酒に酔っぱらっているみたいに踊る母の姿が、何故か勲の目には哀しく映る。印刷を手伝い、いつも油に塗れる母が別人に見える。
「…いやや!……お母ちゃん、踊らんといてぇ!…いやや!」
勲は嗚咽して泣き叫ぶ。
「…変な子ぉやなぁ…勲、どないしたんや?」
母にしがみ付いて勲は、泣き続ける。
勲は母を誰かに取られてしまうような、幻想に取り憑かれた。何故こんな気持ちが勲の心に、棲みついたのだろうか?
父と母の間で寝、眠りに就くまで母の乳房を弄び、時には乳首を吸う。幼い頃から母の肉体は、勲のモノだった。
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いつも朗らかで快活で交友関係の広い母だった。印刷業が好況だった頃、月に二回藤田家に人々が集った。「八日会」と「二十日会」の集まり。
四畳半の中の間と八畳の奥の間の襖を取っ払って、広間を作る。
「八日会」は日本舞踊の会で、近隣の工場の経営者夫婦や市会、府会議員達が踊りのお師匠さんに舞の稽古をつけて貰う。
劇団に通っていた勲と上の兄は『黒田節』を習わされた。
♪酒は飲め飲め~飲むならば 日の本一のこの槍を~飲みとるほどに 飲むならば~これぞ眞(まこと)の~黒田武士ぃ~
兄弟は浴衣姿に兵児帯を締め、扇子を大きな杯にしたり、槍に見立てて舞う。
兄は踊りを愉しんでいたようだが、やんちゃ坊主の勲は男が日本舞踊を踊る事に、気恥ずかしさ感じた。
「二十日会」は、小唄と端唄の会。三味線に合わせて唄う父の小唄は、他の誰よりも上手いと勲は感じた。母は日本舞踊の方が上手い。
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「お父ちゃん、今日有沢君の家、泊まってもええ?」
「勲か…行っといで、お前もお母ちゃんの看病で大変やろ。ゆっくりしといで」
輪転機のローラーの間にペンキを流し込みながら、父は言った。
「朝早ように返って来るさかいに、学校のほうは大丈夫やわ…ほんで、お風呂そろそろ沸くから、お父ちゃん、入ってなぁ…」
勲は有沢を自転車の後ろに乗せ、近鉄F駅に向う。
F駅北口商店街-。幼い頃、父によく映画を見に連れて来てもらった街。
月に一度、父母と兄弟で寿司を食べた街。勲はマグロのさび抜き専門で、赤身に甘い醤油をヘラで塗って、幾皿も平らげた。
地下道で見かけた傷痍軍人が居た街。有沢と自転車を走らせながら、水鉄砲の雨を降らせた街。
そんな過ぎ去ったあの日々に思いを馳せながら、自転車は駅前に着く。
いつものように、一日三十円で預かってくれる自転車屋の前に立つ。ポケットから勲は、十円玉三枚を掌に握り締めて取り出す。掌を広げて、硬貨をじっと見つめる勲。
「……藤田、一体、どうしたんや?」 勲の態度を怪訝に思い、有沢が顔を覗き込む。
「………」
「…藤、田…大丈夫か?」
「……有沢、俺、今日、泊まんの止めとくわ!家、帰るわ…」
言うが早いか勲は自転車に跨り、疾風の如く来た道を取って返す。
―虫の知らせ―
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「お母ちゃん、死んだらいやや!…死んだらアカン!…そうや、そうや…お母ちゃんを殺したんは、兄ちゃんと大先生や!…病院にも入れんと……兄ちゃんが悪いんや!養子なんか行ってしもて…お母ちゃん……僕、医者になる!…きっと医者になって、お母ちゃんみたいな人を助けたる!」
この決意が勲のこれからの人生のターニングポイントになる。
この時代、今のような病院死より自宅死の方が圧倒的に多かった。
勲のしがみ付いた母の体にはまだ、温もりが残っていた。
昭和三十七年六月一日、金曜日、午後四時二十七分。藤田雅子死去。享年五十一。死因「胃潰瘍」。
勲がF警察に補導された日から、一週間後だった。
「あんたが警察沙汰を起こすから、雅子はん、はよ死んでしもたんや…あんたが殺したようなもんや……」 小田のおばあさんが、呟く。
残酷な言葉は、絶対触れられたくない勲の心の核を突いた。
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母は、逝ってしまっていた―。
「……………」
「いさちゃん、お母ちゃんを呼ぶんや!早よ、呼ぶんや!今やったら三途の川から帰ってくるかも知れん…」
枕元に座った山下のおばちゃんが言う。おばちゃんを押しのける。
「……お、お母ちゃん!お母ちゃん!…お母ちゃん!」
咽喉仏が飛びしそうな勢いで勲は、叫ぶ。
「お母ちゃん!お母ちゃん!いやや!死んだら、いやや!お願いや、お母ちゃん!死んだら、いややぁ~っ!」
母の胸にしがみ付いて勲は、絶叫する。
「……可哀そうに…雅子……」
いつもおとなしい父が、ポツリと言葉を漏らす。
白衣に身を包んだ兄と、いつ来たのか大先生も病床を囲むように、うな垂れて座っている。